『終末のマコト』 牧野修

『終末のマコト』 牧野修

 (『ゆきどまり』 祥伝社文庫 所収)

 ―― 私はようやく父親の真意を知った。お父さんは私を愛していたのだ。今私がマコトを殴りながら愛しているように。 ――

 


 杉崎は、ブログをこんなテーマでスタートさせてみたものの、早くもちょっとした危惧を覚えている。

 これからこの場でご紹介することになるであろう数十のホラー短編。
 そのうち半分以上どころか四分の三、五分の四ぐらいが、異形コレクション所収の作品になっちゃうんじゃないだろうか? と。
 まあ別に、異形コレクションの宣伝マンみたいになっちゃう結果に陥っても構わないのだが、看板の問題がある。
 ブログのタイトルを最初から「異形コレクションのこの作品がヤバい」みたいなのにしとけば良かった、と後悔しないためにも、今のところは、他所からも積極的に作品を紹介していきたく思っております。

 さて『終末のマコト』。
 著者の短編集には現在未収録のため、御存じない方も多いかもしれない。
 この作品が読者の厭センサーを鋭く貫き、後々まで記憶の底に突き刺さったまま鈍く輝き続けるのには、それなりの理由がある。
 私が考えるに、それは、緻密な話運び"ではない"。主役吉川光子の真相は、中盤でだんだん透けて見えてくる。
 終盤の意外な大展開も、発想としては素晴らしくとも、なんだか後で付け足したかのような微妙な感じもなくはない。
 (もちろん、蛇足だ、などと言う気は毛頭ないのですが。理由は後述。)

 この作品の持つ怖さの根幹は、細部の秀逸なアイデアにある。アイデアというか、センスだ。とても厭なセンス。
 再読し始めてすぐ、ああ、そうだ、電話だ電話、と思い出す。でもそれだけではなかった。
 私が一番ゾッとしたのは、この作品中で特殊な意味を持つ、<押す>という概念だった。
 そしてそれゆえ、この作品は、最終ページが一番鮮烈に怖い。
 「語られてきた陰惨」が「描かれた恐怖」にスッと切り替わる、その瞬間が一番最後に来るのだ。  

 しかしそれにしても、この頃(初出は『小説NON』1999年4月号)の牧野先生の文体は、本当に怖いなあ。
 縦横無尽やりたい放題に陰惨だが、どこか品があり、それでいて気どっていない。私もこういう文章を目指したい。

 初めの話に戻ると、このブログが半ば「この牧野修短編がヤバい!」になってしまうかもしれない、という予感もまた、今の私にはある。
 でも、そうなっても悔いはないし、むしろそれは予定通りの結果である。
 なぜなら、牧野修短編は、それぐらい杉崎にとって「ヤバい」からである。