『くろん坊』 岡本綺堂

『くろん坊』 岡本綺堂

 (『恐怖の森』阿刀田高編 福武文庫 他 所収)

 ―― 「お前はここらに黒ん坊という物の棲んでいることを知っているかな。」
   「知りません。」
   「その黒ん坊が話の種だ。」 ――

 舞台は江戸時代末期、中部地方の山中。
 様式美とでも呼びたくなる端正なストーリー構造も非常に優れているが、いつまでも心にズシンと残るのは、黒ん坊の存在それ自体であろう。
 作中の説明によれば、黒ん坊は当時、一体でなく多数が山中に生息し、通常の林業の民の生活とは一線を画す別種族であるらしい。
 それでいて、その生態や習性は、猿のような異生物というより、完全に人類のそれであり、野人のようなものとして描かれている。
 そして物語は、その黒ん坊の正体に迫る、といった方向を採らず、そういうものがいるのだ、ということを大前提に、古典的な怪談、陰惨な因果話として展開するのである。

 一世紀前の大作家岡本綺堂が、どこまで意図し狙ってこういう描き方にしたのかは、知らない。
 けれど私には、この曖昧さ、説明の足りなさが、底抜けに不気味だったし、今読み直してもその印象は変わらない。
 
 物語の移り行きに戦慄しながらも、黒ん坊って結局何なんだよ?っていう不気味さがずっと響き続け、これがすなわち作品の凄みとなる。
 一方の極ではのっぺらぼうや一つ目小僧と同様全く架空の怪異のようにも思え、他方の極では、信長が黒人奴隷出身の人物を珍重し家臣扱いとした話だとか、近代化以前の日本には、脈々と山の民が存在してきたのだ、っていう話だとか、そういう実証的な歴史学民俗学系の知識が呼び起される。
 この二つの極の間で読者の黒ん坊イメージがフラフラし続け固まり切らない。これが言いようのない不気味さ、不思議さの発生源なのだと思う。
 ついでに言うと、ジャック・ケッチャムの『襲撃者の夜』、『オフシーズン』、『ザ・ウーマン』を連想する読者もいるかもしれない。
 これら一連のケッチャム作品と同じく、超常現象を排したリアリズムホラーとして読めてしまうのも、綺堂の他の怪談作品とは色を異にする特徴である。

 そして、この作品のもう一つの凄みは、絵的な鮮烈さだ。
 前半の、杣(そま)の一家との交流場面は上記の理由で怖いのだが、一転して後半の黒ん坊の「哄笑」のシーンは、映像化作品も観てみたいぐらい鮮やかで壮絶。
 こんなにも絵になるシーンが思い浮かんでしまったなら、もう作品は半分成功したも同然だろう。

 出版関係の営業妨害になりかねないので、こういう場で書くべきことではないかもしれないのだが、どうしても読みたいが入手できないとお困りの方へ。
 この作品、タイトルや内容的な問題で現在お蔵入りの珍品のように見えて、実のところ、ネット検索すると簡単に読むことができます。