『ドギィダディ』 牧野修

『ドギィダディ』 牧野修
 (『異形コレクションⅩⅡ GOD』井上雅彦監修 廣済堂文庫、『楽園の知恵―あるいはヒステリーの歴史』牧野修 早川書房 所収)

 ―― ぎくしゃくと立ち上がり、父さんは僕に言った。
「だで・おだぁごおづでぇ・でぇぶどおえ・いげぇだ・どお・あぁだじざでぇま・ぞ・あぁだじざでぇま・ぞ・どうまっでぇなざ・えぇどが・おだぁごおざぁじだぁで・ごぉぞおどじでぇう」 ――


 何度目か分からない再読、しかしやっぱり、どぎだっど語が分からない。
 というかそもそも、作中で何が起きたのか、何度読んでも判然としない。
 でもやっぱり、何度読んでも、牧野修的禍々しさの純粋抽出物がこれだ、という思いは変わらない。

 何様のつもりだとの叱責を覚悟で論評すると、牧野ホラー作品には少なくとも二種類の基調テーマがあるように思う。
 それらは同時に作品に登場することもあるが、それでも二つは別物だと私は捉えている。
 その一つは「悪意」であり、もう一つは陰惨美の極みを目指す幻想光景である。
 後者を短く「妄想」と言ってもいいのかもしれないが、当然、ウハウハと景気よく都合のよい幸せな「妄想」とは180度違う。
 「病んだ妄想」とでも言えばいいのか。

 この『ドギィダディ』は、後者の、病んだ妄想の光景が果てしなく続く陰惨美路線の、作者最高傑作短編の一つであると私は思う。
 異形の聖書物語、というこれまた魅力的極まりないモチーフ、そして作中で世界は、終わっているか、終りかけている。
 「悪意」テーマの作品はドラマ的で文学的だが、こっちの妄想系の作品群は、徹底的に美術的だ。

 正直に個人的なことを書くと、この作品を読むといつも、諸星大二郎『生命の木』の、少年時代のトラウマ読書体験の記憶が蘇る。
 なので、ズルいよ、と言いたいぐらいに、どぎだっど語は私の恐怖、不安、戦慄を喚起する。
 『生命の木』のあの恐怖の質感が二重写しになるのである。

 『生命の木』っていうのは、そうです。「善ずさま!」「おらといっしょにぱらいそさいくだ!!」の、あのマンガです。
 うーん、思い出すだけで果てしなく怖い。