『海が呑む(Ⅰ)』 花輪莞爾
(『異形ミュージアム2 メタ怪談傑作選 物語の魔の物語』 井上雅彦編 徳間文庫 所収)
―― ある時期から私は、誰かほかの者たちが私という万年筆(あまり高級なブランドではない!)をもちいて、好きなことを書いている……という感覚にとらわれはじめた。 ――
まず最初に。
これ凄いよ、っていうホラー短編を紹介する場で、他人が編んだ傑作選の中からチョイスを持ってくるってのは、どうなんだ?
そのうち怒られないか、自分でも気がかりです。
(念のため、異形コレクションは全巻全作が初出なので、この問題とは関係ないですよ。)
他人のふんどしで相撲を取る、じゃないが、全く褒められた行為ではない。
アンソロジストにとってはチョイスすること自体が、プロとしての才能であり作品であり努力の結晶であり商品なのだから。
でも、私が阿刀田先生や井上先生、その他にも大勢のアンソロジストに沢山の銘短編を教えてもらったのは、まぎれもない事実。
それに、昭和(あるいは大正、明治、さらに海外!)にまでアンテナ伸ばしてひたすら自力で傑作を探すという労力を払い続けるのも正直きつい。
なんてったって相手は底無し沼みたいなもんである。
だから今後も、この場での作品チョイスは、孫引き的なこともやっちゃうと思うけど勘弁してください。
前置き終り。
さて、なぜ今そんなことを書いたかというと、今回の『海が呑む』のご紹介も、孫引きというか孫チョイスに該当するからだ。
でも、ここからが肝心です。
今回杉崎が、『海が呑む』を紹介しようと思い立った理由。それは、井上氏が私に教えてくれたとっておきの名短編だと思うからではなく、或る特殊な事情の故なのである。
この作品を巡って、とても奇妙で、不気味で、ゾクッとするような状況というか外部環境が、今になって形成されてしまっていることに気づいたから、というのが紹介の理由なのだ。
もちろん、私がそれに気づいたのは、そしてそもそもこの奇妙な状況が形成されたのは、我々が2011年を経験したから、に他ならない。
作中、作者は「彼ら」に操られていたのだ、という。
さすがにアンソロジーに再録されるとまでは予言されていないが、一人でも多くの人に読まれるのは、この「書かされた文章としてのメタ怪談」が目指すところに違いない。
なんで井上氏はアンソロジーのクライマックスに、このやや長すぎ、物語ではなくエッセイみたいな本作を選んだのか?
2011年以前の私は、正直ちょっと首を傾げざるをえなかった。
それが今、全く新しい意味を持つことになるとは。
これを今読むと、この作品をチョイスした井上氏本人が、問題の文書の宣伝者として、メタ怪談の登場人物に加わっちゃってるように見えてくるのである。
相手が誰であれ、自分が知らぬ間に操られてる、って、怖いですよね…。
小説タイトルから或る程度の察しがつくとは思うが、具体的な内容については、この場では言及しないし出来ない。
もっとも、伏せることにより、かえって変な誤解を招きたくないから、蛇足を付け足させていただく。
本作のテーマの扱いにおいて、花輪、井上両氏とも、軽薄な悪意やニヒリズムをチラつかせるスタンスは、一切とっていない。
ただ普通に真摯に(つまり平凡に)このテーマを扱っています。
この点だけは書いとかなきゃ、ちとマズいので。
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