『玩具修理者』 小林泰三
(『玩具修理者』小林泰三 角川ホラー文庫 所収)
―― 「どうして、いつもかけているんだい、サングラスを?」 ――
私、杉崎は、あらゆるホラー作家の過去作も最新作もきっちりしっかりチェックしているような、熱心なタイプの読書家ではない。
だから私なんぞが、どの作品が有名で定評があるか、なんていう客観的で、業界的な、あるいは文学史的な発言をするのは、ちゃんちゃらおかしい。
こんなブログを書いていることで、万が一誤解されたら困るので、先に言い訳をしておきたいのだが…、
この場、「この短編ホラーがヤバい!」は、私という、さして読書量が人より多いわけでもない、一介の短編ホラー好きが、偶然、幸運にもこれまで出逢えた、そして強い感銘を受けた、そういう作品への思いを書き綴っているだけの場所なのです。
第一この杉崎、今は読むより書くことに限られた時間を用いねばならない、貧乏暇無しな、哀れな身の上でもある。
しかし、である。
小林泰三『玩具修理者』という短い作品は、現代日本ホラーの金字塔であり、傑作として完全に評価が固まっている、そういう作品である「らしい」。
日本のモダンホラー短編を読んでる、っていうなら、この作品は避けて通れず、読んでなきゃ話にならない、それぐらい、凄いってことになっている「らしい」。
私はかつて、「日本ホラーの歴史を変えた」とまで褒めちぎった文面すら、見た記憶がある。
結局のところ、世間の一般的な評価については、もの知らずな私がどうこう言っても仕方ない。
仕方ないんだけど、少なくとも、この作品だけは例外。
どうやら、昭和の時代の筒井、半村、赤江……なんていう大御所たちの作品群より後の世代、つまりこのリアルタイムな現代において、早くも揺るぎない評価を獲得してしまっている、そういう短編であることは、事実のようだ。
でも、この場での本質的な事柄というのは、私がどれぐらい凄いと感じたか、なのである。
そして、結論を言えば、私個人としても、とてつもなく凄い作品だと思っています。
たったこれだけを言うために、長々と書いてしまいましたが。
さて、そんな重要作品であるからこそ、これまで通り、ネタバレ禁止の原則を死守し、内容については一切書かない。
代わりに、形式について。
今回数度目の再読をして、実は私、話半ばで、ちょっと微妙な気持ちになってしまった。
一つの疑念が浮かんできたのである。
あれ? この作品、会話文形式じゃない方が、良くないか?
言い換えると、形式選択において、ミスってないか? と。
(この作品は、完全な会話体小説ではなく、「わたし」の一人称形式を採っている、というのが正しい。
でも実質は、九割九分、「わたし」ともう一人の登場人物のセリフである。)
ミスというのは、批判的なもの言いになるが、玩具修理者についての説明や描写にしても、終盤近くの哲学問答の部分にしても、一人の人物(しかも若い女性)の話す内容としては、情報量が多すぎるというか、もっとはっきり言っちゃえば、セリフとしては説明的過ぎる、そんな印象をどうしても持ってしまうということ。
でもこれ、全くの勘違いでした。
ミスでもなんでもないのです。
最後まで読んでみれば、なるほどそうだった、と納得がいった。
この作品は、この形式でなくてはならなかった。
最後からほんの1ページ程の「どうしたの、急に黙りこくって?」から始まる結末パート。
ここで、たった二人の長い長い会話のテンションは、最高潮を迎える。
この一番最後にあたる箇所は、オチを知っていても、私の中でブワッと緊張が沸き起こる。
最後の怒鳴り合いの異様なハイテンションに到達するために、二人は、物語の最初から最後までギスギスしながら喋くり続けねばならなかった。
全て会話の中で、怪奇と謎に満ちた物語を紡いで来ねばならなかった。
客観描写、地の文を長々と入れてしまっては、おそらくは、この緊張感の高まりは得られなかった。
そういうことなのだと思う。
しかしほんと、最終ページの畳みかけ、一分(いちぶ)の無駄も無く、驚きと恐怖をドカンと叩きつけてサックリと話が終わる様には、圧倒される他ない。
何度読んでも、凄いです。
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