『怖い俳句』 倉阪鬼一郎

『怖い俳句』
 倉阪鬼一郎著、幻冬舎新書(kindle版もあります)



 小林恭二『再臨』の項で、倉阪先生の『怖い俳句』をいつか紹介したい、と書いたので、忘れないうちに。
 今回は短編ではなく、一冊の書籍のご紹介となる。
 内情を書いてしまうと、この場、「このホラーがヤバい!」は、紹介の順番を考えて構成し、予定表を書いて小出しにしている、というわけではない。
 基本的には、私が再読したくなった順です。ただそれだけ。
 つまり今回は、何周目か分からないけど、もう一度『怖い俳句』を最初から最後まで読んでみようという気になったわけです。

(そんなに好きな本なのに、そして倉阪先生の短編作品は数えきれないぐらい読んでいるのに、『再臨』のページ、これまでずっとなぜか誤変換に気づかず、倉「坂」になっていました。
 自分の不注意さに呆れるばかりです。
 もうすでに修正した通りで、正しくは、倉「阪」鬼一郎先生です。大変な失礼をいたしました。申し訳ございません。)


 さて。

 しかし今回、何を書けばいいのか???
 まさか、著者のチョイスを論評したり批判したりなぞするほどまでには、私の面(つら)の皮は分厚くはないのである。
 なので、この書籍で紹介されているあまたの名句秀句の中でも、特に私が好きなものを、ただひたすら、抜き書きするに留めます。
 (今度こそ、誤字がありませんように……。)
 へえ、こんな俳句があるのか、こういう俳句をもっと知りたいな、と思っていただければ、幸い。
 ぜひ実際に『怖い俳句』を読んでみて下さい。


<草二本だけ生えてゐる 時間>     富澤赤黄男(とみざわ・かきお)

<寒い月 ああ貌(かお)がない 貌がない>     同


 私杉崎の本棚の、かなり良い所に富澤赤黄男全句集が鎮座している。
 それぐらいこの人が好きなのである。
 見ての通り、前衛的だったり現代詩的だったりする方向性を突き詰めていった俳人。
 「怖い」かどうかはともかく、美しくも寒々しく、不吉で切羽詰った作品世界には、ただただ圧倒されるのみ。


<黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ>     林田紀音夫(はやしだ・きねお)


<二三人死人映りし曼珠沙華>     坂戸淳夫(さかと・あつお)


<あじさゐに死顔ひとつまぎれをり>     酒井破天(さかい・はてん)


 露骨に「死」という語を用いたから怖い、という単純な話ではなく、それよりもむしろ、奇想の鮮烈さがポイントでしょう。


<積木の狂院指訪れる腕の坂>     大原テルカズ(おおはら・てるかず)


<暗呪。沖から手が出て 夜を漕ぐ>     寺田澄史(てらだ・きよし)


 このあたりの暗黒前衛俳句の世界は、小林恭二俳句本で初めて知ったように思う。
 凄まじい芸術世界を追求した人たちがいたのだなあ、と、本当に驚かされた。

 なお、大原テルカズには他に、<懶惰てふ體内の墓地晩夏光>という印象深い句がある。
 「懶惰(らんだ)」(怠惰と大体同義)という言葉がかっこいいので、自作タイトルに拝借したことがあります。
 

<ぶつかる黒を押し分け押し来るあらゆる黒>     堀葦男(ほり・あしお)


<きみのからだはもはや蠅からしか見えぬ>     中烏健二(なかがらす・けんじ)


 なんだか私のチョイスがはなはだ偏ってしまったが、上記のような前衛俳句は、この『怖い俳句』で紹介されている俳句の一部にすぎない。
 教科書にも名前が載っている高名な俳人の、写実あるいは幻視による、非前衛の「怖い俳句」もいっぱい採られている。


<狐火や髑髏(どくろ)に雨のたまる夜に>     与謝蕪村(よさ・ぶそん)


<綿蟲やそこは屍(かばね)の出でゆく門>     石田波郷(いしだ・はきょう) 


 こんな感じ。いかがでしょうか?