『渡し舟』 菊地秀行
(『異形コレクションⅩⅧ 幽霊船』井上雅彦監修 光文社文庫 所収)
―― 「みんな、溺れるか撃たれるか……そのために逃げてきたみたいでした」 ――
ずっと探していた短編がこれだった。
菊地秀行作品で、東南アジアの国境が舞台の話が異形コレクションのどこかにあったはずだ、とずっと気になっていた。
なのに、異形コレクションを何十冊めくってみても、一向に見つからない。
私の記憶に残るあれは、小説の幽霊か何かだったのか? とだんだんホラーじみた不安を感じ始めたころ、ようやく再会できた。
一度は内容を再確認したはずの『幽霊船』の最後から二番目。
普通に、見落としていただけだった。
ああそうか、渡し舟の話だったから『幽霊船』に決まっているじゃないか、と、発見の後にはそう思えるのだが(馬鹿ですね)。
でも、私の記憶の中ではただ、戦争の話、という印象だけが強くて、どの巻の収録作品だったか見当もつかなかった。
御存じの通り、異形コレクションには、『戦争』なんていう巻は無いし。
ついに見つけ、再読して、やっぱり良い作品だと思った。
いつもは鬼畜作品にグヘグヘとゲスな喜声を上げてばかりの私が、たまにはこういうきれいな、悲しく哀しい話を紹介してもバチはあたらないだろう。
さて、一般に、人に害を為すタイプの幽霊話でなくてジェントルな幽霊が登場するだけの話は、幽霊話ではあってもホラーではなくただのファンタジーである。
ジャンル論を言っているのではなく、たいてい、事実としてそうなのである。
正直言って、ジェントルな幽霊話を読む時、私は多くの場合、あまり愉しんでいないし、体調が悪ければ、退屈だなあ、と思ったりさえする。
こんな傲慢に過ぎるもの言いは、ただ単に、私が脳内興奮物質の中毒者の変態である、という告白と同義であるにすぎないのだが。
だが、この作品は(私にとって)少数派の例外である。
静かな、きれいな、哀しい話なのに、それでいて、とてつもなく怖い。
その怖さを支えているのは、ひとつには、一目瞭然なので書くのも虚しいが、戦争の巨大な狂気がもたらす絶望的な悲惨さだ。
そして、これもまた、当たり前すぎて書くのも恥ずかしいが、菊地氏の語りの巧さだ。
誠実な老教師、国境の小学校、無垢な子供たち、美しい大自然。
それらと、惨たらしい戦乱、銃弾に命を散らした幽霊の陰惨さとの、対置。
これだけなら当たり前の手法だが、この作品はそれ以上のことをやっている。
作品冒頭で、実に3ページにも渡って引用される、もちろん架空の雑誌記事。
このパートが決定的に効いて、上記の対置における二つの項の距離を何十倍にも広げる。
それと同時に、この作品の舞台設定を巧みに紹介し尽くしてしまう。
こういうことをサラリとやってのけるのが、この作者の巧さだ。
気がつけば、あっという間に、舞台に、ストーリーに、キャラクターに、完璧に惹きこまれている。
菊地作品は、いつだって、そうだ。
お世辞を言う気は毛頭なく、掛け値なしの本心なのだが、私が思い描く現代の<小説の神様>とは、菊地秀行その人である。
蛇足ながら、最後に、私の信用ならない記憶力についてもう一つ。
この短編小説を探すにあたって、ぜひとも、もう一度読みたい一節があった。
それが、これ。
『この記憶が、いずれ人間の頭から消え去るにしても、死者は忘れないだろう』
……どうでしょう? 凄い一文だと思いませんか?
簡潔にして、深く、哀しく、そして、怖い。
(私の記憶力の話に絡めたわけでなく、そこは、ただの偶然の一致です。)
私はこの菊地氏の文章を、この『渡し舟』の中の一節だと、ずっと記憶していた。
ところが、再読してみたら、完全に間違いだった。
本当は、作品紹介で編纂者井上氏が引用している、別の書籍での菊地氏の言葉だったのでした。
……う~ん。
まあしかし、いずれにせよ、小説本編に加え、このたった一行の文章にももう一度巡り逢えて、再び胸をうたれる。
これもまた、再読の楽しみというものなのでしょう。
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