『電気鬼』 井上雅彦
(『恐怖館主人』井上雅彦、角川ホラー文庫、『1001秒の恐怖映画』井上雅彦、創元推理文庫 所収)
―― 「ねえ。どうして『電気鬼』っていうの?」
「さあな。みんな電気みたいに繋がってるからじゃねえの」 ――
個人的な好みとしては『1001秒の恐怖映画』の方、実に100ページを超える(!)改題が巻末に付いていて、書籍として何度も楽しんで読み直している。
ハリウッド製のクラシックなホラー映画なんて、今の時代にどれほどの人が興味をもつのかは知らない。
が、私は、ホラーに限らず古い映画がとても好きなので、この『1001秒の恐怖映画』は本当に楽しめた。
とはいえ、映画マニアというものは、上には上がいるのが世の常であり、実際問題として私の映画知識など井上先生の百分の一にも満たないだろうから、ここで私が映画薀蓄を語っても仕方ない。
なので、ここでは、私にしか語れないことを書くとしよう。
このショートショート作品のタイトルページを見て、まず感じたのは、「電気鬼」というコトバのかっこよさだった。
そのページには「THE DAWN OF DENKI-ONI」と英語の副題が付され、かの映画の有名なカットもあって、まずはそこでワクワクすべきところだが。
しかしそれにしてもタイトルが『電気鬼』なのである。「電気」で「鬼」である。このミスフィットで、それでいて禍々しい感じが良い。
そして、そもそも「電気鬼」という言葉の意味が分からない。
読み始めてすぐ、ああ、なんのことはない、私が子供の頃「手つなぎ鬼」と呼んでいた遊びのことか、と判明するのですが。
でも「電気」「鬼」という語感へのトキメキは、それで終わったわけではなかった。
この作品を初めて知った当時(十数年も前だ)、私は ELECTRIC WIZARD というイギリスのドゥームロックバンドに心酔していた。
電気の魔法使い、という、ロック分野に詳しくない人でも理解できる一見古風、幼稚なバンド名は、意図的なもので、回顧主義的なニュアンスを狙っている。
そういう個人的経緯もあって『電気鬼』の「電気=ELECTRIC」という形容詞が、私の心にビンビン響いた。
古臭くて当たり前で、しかし、太くパワフルで、非情、非人間的で、味のある単語だと思う。
さて、この話ではどんなSF的な鬼が出てくるんだろう?と勝手に思ってたら、実は上記の通り、電気は関係の無い話。
したがって、ここまでの話は、私が勝手にタイトルにときめいた、ってだけの思い出話です。
(いずれ、自分で、何か特殊なからくりをもったゾンビやグールの話を考えついたら、ぜひ書いてみたいのですが。)
この極めて短い作品『電気鬼』の価値は、別の所にある。
よくある、というか、正統派ゾンビ短編としてはこれ以外に書きようがない、世界がゾンビパニックに陥った直後の、凄惨な一コマの切り抜き。
そこに、登場人物の子供時代の、電気鬼遊びの思い出が重なる。
かなり終わり近くの、
<集団は、一瞬、躊躇した。>
というこのたった一文が秘めた、圧倒的で決定的な力。これは本当に凄いと思う。
読めば、分かります。
そもそも、この特殊なルールの鬼ごっことゾンビパニックストーリーとの重ね合わせという着想が、まず素晴らしい。
脚本上の電気鬼の使い方が文句なく巧いし、そしてなにより、電気鬼という遊びのもつスリルの質が、ゾンビホラー特有の恐怖と、とても良い感じに共鳴している。
さらに勝手な考察をお許し願えるならば……。
「電気鬼」というタイトルは、実は、多数派を形成することで安全と安心を得る我々の卑しい習性を意味しており、つまるところ、「鬼」とは人間のことにほかならなかったのだ!!(ドヤァ)
などと、今ふと思いついたりもしたのだが、井上先生がそこまで深い意味を籠めるつもりがあったかどうかは、全く知りません。あしからず。
なお作者には、本作『電気鬼』とは別に、『踊るデンキオニ』(『スクリーンの異形 ―骸骨城―』井上雅彦、角川ホラー文庫 所収)という短編もある。
キャラクターや事件は被らないので続編というより同アイデアを用いた姉妹編という感じ。
こちらもぜひ、ご一読を。
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