『少女架刑』吉村昭

 

『少女架刑』 吉村昭
 (『星への旅』新潮文庫 所収)



 ―― 私の身体の役目は、まだ終わらないのか……。
   私は、自分の体が薄茶色を帯びはじめ、アルコール液が脳のない頭部にも開腹された腹部にも、そして口や鼻の中にも深く浸みてゆくのを感じながらなんとなく落着かない時を過ごしていた。 ――



 「衝撃のラストの後に……」とこの文章を書き始めかけて、ああ、いきなり間違った、と気づく杉崎。
 久しぶりのホラー短編レビューで勘が鈍っているようです。

 衝撃のラスト、どころの話ではない。
 陰鬱で静かな導入部を過ぎれば、この作品は前半から最後の1ページまでくまなく衝撃的である。
 厳粛な緊張と戦慄とを、読者は最後の一行まで絶えず強いられる。
 まったく隙のない語り口は、気を抜く暇も与えてくれない。
 それでいて波乱万丈の起承転結があるわけでもない。物語の中で二か月半という時間が淡々と進みゆくのみ。

 1ページ目を初読した際の「え? どういうこと?」という驚きを味わう邪魔はしたくないので、粗筋は書かない。
 でも書こうと思えば粗筋は一行で書けるのだ。(実際、検索すればあちこちに書いてあると思います。)
 それが逆にこの作品の凄みである。
 ただ黙々と、しかししっかりと一文一文一字一句を書き継ぎ、読者の気持ちを決して逸らさないこと。
 そして最後の最後でまた、重く深く底抜けに暗い余韻を読者の心に刻みつけること。

 巧いストーリーや意外なオチばかりを捻りだそうと日々苦しんでいる杉崎も、たまにはこういう形式の作品に挑戦してみたいのです、実は。
 すなわち、一つの奇想を、静かに落ち着いて、そして徹底的に書き通す、そんな作品。
 それにはもちろん、本作のような興味深いネタと描き方のアイデアがまずあってこそ。
 それに加え、作者の筆力と揺るがぬ思想・感性も伴わねば、まともな作品になるはずもなく、前途多難というか身の程をわきまえろというか…。

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 さて粗筋は書かない、その約束は守りますが、ただ一応お断りしておきたいことが。
 それは、この作品は、ともすればタイトルから想像するかもしれないようなエロ小説ではありません、ということ。
 可憐な美少女がハリツケ拷問されるSM話を期待してはいけない。
 そっち方面だったらそれはそれでありがたいことですが、実際問題として違います。
 この作品から猟奇的なエロティシズムを勝手に嗅ぎ取ることは可能だが、そもそもそれを主眼に置いたストーリーや文体ではない。

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 本稿冒頭、杉崎がなぜいきなりラストの話をしようとしたのか、に話を戻します。
 この短編集、新潮文庫版では、各作品の最後に、発表された年と月が記されている。
 この『少女架刑』は、「昭和34年10月」。
 西暦で言うと、1959年。…………、えっ?って一瞬目を疑った。

 なんか私が勝手に思いこんでたよりかなり古い、早い年代だったので。
 けっこうずっと、衝撃的な内容からも、清冽な文体からも、1970年代ぐらいの作品だと勘違いしていた。
 よく言われることではあるが、吉村昭文体のいわゆる「即物性」が、私にそう思わせたのでしょう。

 もっとも、テーマ的に関連がある大江健三郎『死者の奢り』は1957年で、『少女架刑』の2年前の作品らしい。
 ただ杉崎の感じ方では、両作品は向っている方向が違うというか、主眼とするものが違う。
 どちらも将来の大作家の一番若い時期の瑞々しい、極めて質の高い純文学短編でありながら、『少女架刑』はこちらを向いている。
 こちら、すなわち、<ホラーの方向>を向いている。杉崎はそう感じます。

 吉村昭の他の作品についてのヨモヤマ話は、別ページで、短編集表題作『星への旅』の紹介と一緒に書きます。
 もちろん私ごときが吉村昭文学の全貌を語るなんて無理なので、あくまでも<ホラーの方向>に限定した話です。

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 最後に書誌情報。
 『少女架刑』は、ちくま文庫の『名短篇、ここにあり』(北村薫、宮部みゆき 編)というアンソロジーにも収録されている。
 こっちのアンソロジーで読んだ、という方もいるかもしれない。
 が、ぜひとも、この作品は新潮文庫『星への旅』で読んでいただきたい。
 その理由は『少女架刑』と続けて、『透明標本』という短編が収録されているから。
 『透明標本』は今の言葉で言うならスピンオフ。『少女架刑』の中盤で登場した或る脇役の物語なのです。
 こちらはこちらで読み応えのある内容。読まなきゃ損です。

 また新潮文庫版では、当たり前ですが表題作である短編『星への旅』も読めます。
 これについてはページを改めてご紹介します。