『星への旅』吉村昭


『星への旅』 吉村昭
 (『星への旅』新潮文庫 所収)



 ―― 「それじゃ、僕と来ませんか」
    男は圭一を促すと、丁度フォームに滑り込んできた電車のドアに足を向けた。 ――



 さして分厚くもない新潮文庫。
 黒い背表紙に、縦書きの白い活字で「星への旅 吉村昭」とある。
 圧倒的に地味だ。
 何の変哲もない薄い文庫本だ。
 書店の本棚に並んでいてもうっかりすれば見逃してしまいそうだ。
 だって、その左右には同じ著者の『戦艦武蔵』『高熱隧道』『羆嵐』なんていかつい大著が並んでいるのである。

 私はその吉村昭という巨人の膨大な全著作のうちの、ほんの数分の一も読破してはいない。
 だから作品の傾向や、ましてや作者の人となりを語るなんておこがましいのですが。
 それでも私は素朴に、この人多分、杉崎が好きなタイプの作家だな、という漠然とした印象をもっていた。
 それが、初期純文学短編集『星への旅』全作品を読むことではっきりした確信に変わった。

 もちろんこの大作家を、本質的にホラーの人なのだ!とまで決めつける気はない。
 でも、魂の構成要素の何割かは、ホラー作家要素が入っちゃってるように感じる。
 怖い、きつい、厭だ、グロい、惨い…
 そういうモチーフから目を背けず、むしろ興味を持ち、それを描きたくなっちゃう、そういう性(さが)。
 ぶっちゃけ作家と呼ばれる人の大半は、多かれ少なかれこういう部分を持っているのかもしれないけれど。

 吉村昭長編への杉崎の印象は、この人は、一見そういうものを持っていなさそうで、でも深いところに持っている人だ、というものだった。

 これは『羆(くま)嵐』『蚤と爆弾』『破船』あたりを読んだ後の印象。
 陰惨な場面を描いても吉村昭の筆は静謐だ。
 変わらぬ抑えたタッチだ。
 ホラー作家ならこれ見よがしに過剰な残虐描写が飛び出しそうな場面でも、吉村昭は決して興奮しない。
 動きに緩急をつけまくる球技や格闘技の選手というより、長距離ランナーのようなイメージ。

 だけどその場面をしっかり描く作業から逃げようとはしていない。
 むしろ書きたくて書いている、そんな不思議な印象があった。

 フィクションである『破船』の読後の感想も、まずは、よくこんな厭な話を書くもんだ、というものだった。
 話の展開が厭なのではない。
 それ以前に、話の大枠、舞台設定が、考えれば考えるほどとてつもなく厭な話なのだ。面白いですよ。

 もっとも、セミ・ノンフィクションである『羆嵐』の前半は、もっと直截に怖い。
 シャレにならないぐらい怖いシーンがいくつもある。
 錚々たる古今の日本創作ホラー長編小説群をさしおいて「日本で最も怖い長編小説の一つ」なんて言う人もいるようだ。
 杉崎も全く同意見である。 

 そんな大作家を前に、私が何か新発見や発掘をしたかのように書くのは図々しいことこの上ないのですが……。
 まあでも『少女架刑』や『星への旅』という短編をここで紹介するのは、無意味とまではいかないだろう。
 作者現役の頃はともかく、今じゃそれほど知名度が高い作品ではないかもしれないし。

***

 『星への旅』という短編、まずこのタイトルのネーミングセンスが曲者である。
 リリカルな可愛らしいタイトルと、けっこうきつい内容とのギャップ。
 何だよ、まんまとやられたな、と思いながら読み進み、読み終わる。
 すると、なぜか、このタイトルが作品にマッチしているようにも思えてくる不思議さ。
 いや、なぜか、どころじゃない。
 悪趣味なヒッカケでもなんでもなくて、この作品のタイトルはこれでいいんだ、と納得できる。

 内容はというと、昭和40年頃の、いつの時代にもいるらしい、無軌道で虚無的な若者集団の群像劇である。
 ちなみに村上龍『限りなく透明に近いブルー』よりもっと前の年代の話。
 
 この作品は、最後の数ページの迫力が素晴らしい。
 逆に言えばここに至るまでは頑張って、いかにも昭和文学だなあって話と向き合わねばならない。
 もっとも、古い小説にしては読みやすいし、難解な哲学談義や政治談義も(それほどは)出てこない。
 だから身構えずに、徐々に緊張感を高めながらクライマックスに至ればいい。

 この作品の一番最後にくるクライマックスは、絶対に読者を裏切らない。
 盛り上がり的な意味でも、そして、シナリオ的な意味でも。

***

 もう一つ、この作品で印象深いのは、一番最後の数段落だ。
 実はこの部分、無くても小説は成立するのだ。(誰でも気づくことかもしれないが。)
 無くても、話は綺麗に終わるはずなのだ。

 その意味で、分量にして1ページ分、一番最後の六段落ほどは、余剰である。
 だがもちろん、取って付けたような付け足しではない。
 作者の、内面的な必然性が、この最後の数段落を書かせたのだ。
 
 そして、本作品において杉崎の印象に深く突き刺さり、強い感銘を与えたのは、まさしくこの箇所に他ならない。
 パワー、熱量という点もさることながら、「あれ? まだ終わらないんだ?」ってちょっと面白がらせる、テンポ調節の技巧が本当に素晴らしい。