『便所の神様』京極夏彦


『便所の神様』 京極夏彦
(『厠の怪 便所怪談競作集』東雅夫編、MF文庫 所収)



 ―― 梦(くら)いなあ。夢みたいだ。
   明るい部屋で観たモノクロ映画みたいに薄ぼんやりとしています。 ――



 「私にとって」と言おう。
 人によって、これ以上はもう無理、というラインは百人百様だ。
 「私にとって」は、この『厠の怪』所収の諸作品については、文章を読むだけでしんどい。本当に生理的に無理。眩暈を覚える。
 食事中とか飲酒中に読むなど、もってのほかである。

 このアンソロジーのテーマは、私のラインの向こう側にある。

***

 それにしてもこのアンソロジー、参加している先生方は本当にプロだなあと尊敬する。
 決して、あきれてバカにしているわけではない。全く裏のない、文字通りの称賛である。
 というのは、本当に力作ぞろいなのである。
 どうせ書くなら徹底的に、と、これでもかと攻めてくる。いや、責めてくる。

 平山夢明『きちがい便所』とかその真骨頂で、何度か読み直しているのだが、そのたびに後悔する。
 そしてもう今度こそ二度と読まないようにしよう、と誓いを立てる。それぐらい私にとって精神的ダメージが大きい。

 なので今回は、平山作品ではなく、京極夏彦『便所の神様』をご紹介する。
 この作品は、このアンソロジーの冒頭を飾るにふさわしく、煌びやかかつへヴィである。
 それに加え、ホラー文学の一つの奇跡的な達成を示している。

 この作品は散文詩だ。饒舌な萩原朔太郎だ。
 それでいて、強烈なケレン味も宿している。主人公の少年の語り口が非常に作為的なのだが、その一つ一つが奇妙に美しい。
 これぞ「声に出して読みたい日本語」である。最悪な内容だが。

 この作品の特別さは、起承転結をもたない構造にある。
 ひたすら厭で厭でしょうがない描写が無間地獄のように続き、そして、サックリ終わってしまう。

 起承転結が無いのにすごい、とは、以前、牧野修『<非-知>工場』の紹介でも書いた。
 あちらは、心霊理論の説明だけに終始するという特異な作りだった。

 一方こちら『便所の神様』は、文体と、語り手の変な語り方、それだけで成り立っている。
 はっきり言えば、和風家屋の和式便所のたまらない厭さを、凄まじく流麗な文章で描き続けているだけなのだ。
 
 とても詩的で格調高いボキャブラリーと文体、そこから醸し出される生々しい汚らしさは、このアンソロジーの他のリアリティ溢れるガチンコスカトロホラーに勝るとも劣らない。
 私は、自分の生理的嫌悪感の方向性もあって、この作品はまさしく地獄のようだと思う。
 唐突にやって来るオチまで、一行一行のイメージ喚起力が尋常ではない。

 こんな地獄のような作品をサラッと書ける、そんな筆力が欲しい。同じ道を志す者として、遥かな高みにある憧れの作品である。