1 由香
わたしの住む女性専用マンションには、エレベーターが一基しかない。
それは、深夜一人で乗っていると、中からボタンを押してもいないのに、自然に8階に停まることがあるらしい。
〈誰か〉が、乗ろうとしているのだ。
普通の利用者であればいい。
だが、その時刻がちょうど午前2時だった場合、8階で開いたドアからは〈恐ろしいモノ〉が乗り込んでくる。
数カ月前に8階で忌まわしい惨劇があった、それ以来のことらしい。
そういう噂である。
その事件の当時、九州に長期出張していた。三週間ぶりに帰宅して、何日も経ってから事件のことを知らされ、さすがに驚いた。大きなニュースになっていたらしいが、仕事に忙殺されて見逃していた。それとも、報道には触れたがその事件が発生した地名を聞き逃したのかもしれない。
あまりにも酷い出来事であり、たしかに、住人が次々引っ越していったのも、今述べたおかしな噂が圧倒的な真実味を帯びて広がったのも、無理のないことだろう。
とはいえ、わたしはと言うと、それを知った後も、どのみち寝に帰るだけの部屋だと割り切っていたので賃貸契約を継続していた。
その夜、腹立たしい残務で終電を逃し、タクシーに馬鹿高い料金を支払って、ようやくマンションまで帰り着いた。
わたしの部屋は11階にある。つまり、エレベーターは8階を通過する。
エレベーターに転がり込んでから、ふと腕時計を見た。
あと少しで午前2時だった。例の噂を思い出してしまい、馬鹿らしいと思いながらも嫌な緊張にとらわれてしまった。
なんだか、罠にはめられたような気分だった。
エレベーターは静かに上昇してゆく。
4階、5階……、わたしの胸騒ぎが高まってゆく。
あっ……。ヤバい……かもしれない……。
何かが来る。そんな予感が、勝手に湧いてくる。どんどん強まってくる。
そして。
エレベーターは、そうなる運命だったかのように、8階で、音も無く停まってしまった。
わたしの部屋がある11階しか、ボタンは押されていないのに。
ドアが静かに開く。
闇だ。
8階のエレベーターホールは、なぜか真っ暗だった。
次の瞬間、わたしの全身は、両耳から凍りついた。
ズズッ……、ズズッ……、
暗闇の奥から、何者かの不気味な足音が近づいてくる!
慌ててエレベーター内の『閉じる』ボタンに駆け寄った。
わたしは、しかし、ボタンを押すことができなかった。
わたしの背後からヌッと手が出て、わたしの顔を掠め、わたしより先にボタンに手を触れたのだ。
「きゃあ!」
思わず大きな声をあげ、エレベーターの中でへたり込んでしまった。
驚くに決まっている。このエレベーターの箱の中に、もう一人、人がいた。もちろん全く気づいていなかった。睡眠不足と疲労が重なり、階数表示だけを睨んで上の空だったのだから、ありえないことではないのだろうけれど……。
その腕は、半狂乱でボタンを連打している。全身を動かし、ガチャガチャと、何度も何度も。
水商売を思わせる露出の多い派手な服、明るいブラウンの長い髪。面識は無いが、このマンションの住人なのだろう。
彼女も、わたしと同じなのだ、恐怖に駆られ、必死に『閉じる』ボタンを押そうとしているのだ。わたしと同じく、8階の幽霊に怯えて……。
(嫌だ、来る、来るよ! 来ないで、閉まって、閉まってよぉお!)
ドアは開いたまま、動こうとしない。
(早くしてよ、何してんのよ!)
怒鳴る寸前のわたしは、彼女の手元を初めてはっきりと見て、息を呑んだ。
ボタンが壊れているのではない。彼女がそれをうまく押せていないのだ。
手の指が、どれも別々の方向にへし折れていた。骨が剥き出しになっている指もあった。うまくボタンが押せる状態には、とても見えなかった。
取り乱した彼女の顔も初めて見えた。
真っ赤なジャケットと同じ色だった。
顔面を赤一色に染めていたのは、バックリと割れた額から今も滴り落ちる鮮血だった。頭部の形は崩れていた。へこんでいるようだが、血と髪とがグチャグチャに貼りついてよく分からない。右目はこぼれ落ちてしまったのか、あるはずの場所に、無い。歯まで真っ赤だ。
生きている人間には、とても見えなかった。
「ギャアアアアアアア……!」
その悲鳴は、わたしのものか、血みどろの女性のものか、あるいは両者のものだった。
彼女の姿が、わたしの視界から突然消えた。
溶けるように透き通って、消失した。
代わりに、ドアの外の暗闇の中から、闇よりもさらに黒い影が浮かび上がろうとしていた。
あと一、二歩でエレベーターの中に足を踏み入れられる距離だ。
それはとても大柄な男のシルエットで、金属バットのような鈍器を手にしていた。顔も服装も、一切分らなかった。逆光でもないのに。
いや、それは男ですらなかった。
きっと〈影〉そのものだったに違いない。
*
由香は、エレベーターに侵入してきた〈影〉を前に、ただ腰を抜かしていた。
消えた女の指がすべて折れていた理由を、由香はすぐに知ることになる。
〈影〉が無言で振りかぶった鈍器は、ブンッと虚空を切り裂き、由香が本能的に身をかばってかざした手のひらを、鋭く薙ぎ倒した。
由香の頭部もろとも。
2 アイとエリカ
「ねえ、エリカ、もうここに、あたしんちに、引っ越してきなよ」
エリカはまだ熱いドライヤーを脇に置いた。乾かしたばかりのアイの髪の匂いを楽しんでいたところだった。
アイの胸に抱かれたエリカは、不意にそんな言葉を聞かされて、暗い気分になった。
「あら、プロポーズ?」
甘い声で答えながら、エリカは、全く浮き立った顔をしていない。
アイは、エリカの手を取り指を絡ませた。
「だってさあ……。エリカのマンション、ヤバいわけでしょ? だからグズグズ、もう四日も、あたしんちに泊まってるんじゃない」
エリカは言葉に詰まった。アイは少し顔を引いた。
「泊まってくれるのは、嬉しいのよ。だけどさ、白けるじゃない? 本当は、あたしと居たいっていうよりさあ、帰って自分の部屋で寝るのが怖いだけなんじゃないの、とか思っちゃったら、ちょっと悲しくなるじゃない?」
エリカの瞳を覗き込むアイ。
エリカの方から、目を逸らした。
半年前から恋人の関係になった二人だった。
アイの、エリカのマンションより少し狭い部屋に転がり込んで、同棲生活の真似事をしていたこの数日は、ひたすら楽しかった。その気分に今、ドス黒い影が差した。自分のマンションで起きている〈現実〉を思い出したことと、そしてアイへのうしろめたさ申し訳なさとの、両方が原因で。
「うん、本気でヤバい。うちのマンション、ヤバいんだ」
「そろそろ、ちゃんと聞かせてよ」
「人が、消えてるの。どんどん」
「それって、あの事件の後、みんなが怖がって引っ越ししてるだけじゃないの?」
「両方」
「何が両方なのよ?」
「引っ越していった人もいる。いっぱいいる。かなり大勢、逃げ出したのよ。わたしが顔を知ってる人だけで三人、噂では、もっと。……でもね、急に人が行方不明になって、警察が事情聞きに、まだ住んでる人の部屋、回ってたりもしてるのよ。うちにも来たし」
「……マジ?」
エリカは、無言で頷く。
こういうシリアスな顔のエリカもいいなあ、アイは密かに思う。
「あれって、何階だっけ? ほら、そもそも、あの殺人事件が起きたのって?」
「8階だよ」
エリカは、自分の膝の上のアイの手を強く握り返した。
「ストーカーだったんだっけ?」
「ワイドショーでは、そう言ってたよね。……でも、うちのマンションでは、真犯人はその人じゃない、絶対違うって。話した人はみんな言ってる」
「ええ? でもストーカーの奴、指名手配になってるけど、まだ捕まってないんでしょ? 写真もテレビで見たよ、何か暗いオタクみたいな奴。ガリガリの。被害者の高校の同級生だっけ」
「でもね、絶対違うの」
エリカの手がひどくこわばっている。
「なんで言い切れるのよ?」
「だって、マンションで、何人も見てるのよ。熊みたいな、大きな男なんだって」
「何それ?」
「それでね、その真犯人が今でも、マンションの中のどこかに潜んでるって」
アイが身を引き、姿勢を正した。
「エリカ……。ねえ、いつまででも、ここに居ていいんだよ?」
エリカは深く頷いた。
その目は涙で潤んでいた。アイへの感謝と、純然たる恐怖との、両方で。
翌日の日曜、二人はエリカのマンションに向かうことにした。
体一つでアイの部屋に転がり込む決心をしたものの、エリカの部屋には、通帳や印鑑、賃貸契約書など、どうしても取ってこなければならない品物がいくつもあった。
まだ日の落ちない時間を選んだが、それでもエリカは全く気がすすまなかった。
「本当に、もう半分ぐらいしか人が住んでいないの? 全然分かんないよねえ」
アイが同意を求めても、エリカは無言のままだった。
エリカの表情はひどく硬い。アイも、全然分かんない、変わらない、を連呼しながらも、マンションの雰囲気がガラリと変化していること、忌まわしい気配に覆い尽くされていることに、気づかないわけがなかった。
自然と早足で、二人は1階のエントランスをくぐり、エレベーターホールに向かう。固く手をつなぎ合っている。普段なら公共の場では、人目を気にし長く見つめ合うことすらしない二人だった。
「あ、もうすぐ8階だよ。あたし、ちょっとだけ事件の現場見てみたいかも」
スルスルと上昇してゆくエレベーター。エリカの部屋がある10階の二つ下、8階のボタンに親指を立てようとするアイ。
「ちょっと、アイ、やめてよ!」
「なーんて、嘘嘘。冗談だよ。押してないって。さすがのあたしも、怖いって」
ところがエレベーターは、アイがボタンを押してもいないのに、8階の直前で速度を落とし、そして静止した。
ドアが開いた。チャイムは鳴らなかった。
「閉めて! 早く! ドア、閉めて!」
エリカがアイに、泣いて謝るかのような声をぶつける。両手でアイの左手を握りしめている。
「押してるよ! 今度は、ちゃんと押してるってば!」
その瞬間、エリカの耳元で声がした。
……なぜ、深夜じゃないなら大丈夫だと思った?
アイをキッと睨むエリカ。アイの口は動いていなかった。
そもそも全くアイとは違う声だった。酷く低く酷く不気味で、それでいてスッと脳に染み込む、無感情な男の声だった。
大きな体躯をもった何者かが、いつの間にかエレベーターに侵入していた。
姿は見えなかった。確固たる気配だけがあった。
ムッとする不潔な男の臭いが二人の鼻を突いた。明らかに二人に害を為そうとしている気配が、ヒシヒシと感じられた。
それでいて、エレベーター内には、エリカとアイの姿しかないのだった。
ブン!
突如風を切る音がして、見えない何かがエリカの顔を掠めた。同時に、ドンッとエレベーターの内壁が大きな音を立てた。
「キャア!」
悲鳴と共に、二人は壁を見る。
依然として怪人物も凶器も見えない。しかしエレベーターの壁は、硬い重い物で殴られたようにへこんでいた。
「キャアアアアア!」
二人は、手をつないだままエレベーターを飛び出した。
そこに、逃げ道など無かった。
ただの暗闇が広がるばかりだった。
建物の外ではまだ、強い日差しが照りつけているだろう。だがこの8階は、外界と完全に断絶していた。
ほんの数歩で、二人は絶望的なまでに後悔した。
暗闇の中、またしても先ほどの、凶器が風を切る音が聞こえる。
前方の闇の中から、何度も、聞こえる。
泣き叫びながら、アイがあてもなく駆け出そうとする。急に腕を引かれ、肩が抜けそうになるエリカ。二人とも、手をつないでいることすら忘れていた。
「行かないで! 行っちゃダメ!」
エリカはアイを全力で抱きよせ、しがみつく。ようやくつないだ手がほどけた。
エリカは確信していた。この闇の中に走り去ったら、絶対に生きて帰れない!
「ねえ、エ、エレベーターに、戻ろ」
泥を吐くようにエリカはその言葉を絞り出すと、暴れるアイを引きずって、エレベーター内部に戻った。
エリカは『閉じる』ボタンに必死に手を伸ばす。狙いが外れる。あれ? 上手く押せない……。
我にかえったアイが、再び絶叫する。
「エリカ、あんた、指、反対側に曲がってる!」
エリカは自分の右手を見ようともしなかった。
「お願い、閉まって!」
エリカは叫んで、今度は左手でボタンをバチンと叩いた。左手の指は折れていなかった。
ドアは、静かに閉じた。
「エリカ、あんたんち、あんたんちに逃げよう。10階、早く」
もとから点灯していた10階のボタンを、エリカは左手で連打している。だがエレベーターは8階から動く気配がない。
ドォォン……
閉じたドアが大きな音を立てた。
二人に振動が伝わり全身が凍りつく。箱側のドア、ホール側のドア、その二重のドアの向こうから、何者かが、こちらを殴っている。
いや、違う。エレベーター内部からでも、そのドアが裏側から直接殴られているのが、感覚的に分かる。おそらくホール側のドアは今、開いたままなのだろう。
何者かがドアを殴っている。大きな、硬い、重い鈍器で、力を込め、憎悪を込め、殺意を込めて、殴っている。ドア一枚を隔て、圧倒的な暴力に嬲(なぶ)られている。
ドォォン、ドォォン……
何度も、何度も。
いつの間にかアイは、エリカの胸に顔を埋め、失禁している。
エレベーターは依然動こうとしない。いや、上昇あるいは下降をしているのかもしれない。それすら、もう二人には分からなかった。
ドォォン、ドォォン……
二人には、エレベーターの一番奥の壁にへばりつき、震え続けることしかできない。
ドォォン、ドォォン……
ドアを殴る音だけが、無限とも思える長い時間、響き続けていた。
3 涼子
なんでわたしは、こんなことをしているんだろう。
そういう疑問がチラリチラリ脳裏をかすめては、すぐに消えてゆく。
涼子は暗闇の通路をゆっくりと歩いている。
マンションの共有スペースである各階廊下。本来は二十四時間電灯がついていて然るべき場所だ。本来は左右に、可愛くピンク色に塗られた鉄のドアが三つずつ並んでいるのが見えるはず。しかし今はほとんど完全に真っ暗闇だ。かろうじて廊下の突き当たりで、エレベーターの階数表示が弱々しい光を放っている。この緑の光が見えるということは、ビル全体の停電というわけではないようだ。
ああ、そうか! 涼子は思い出す。
少し前にこのマンション内で殺人事件があった。それがこの階だ。被害者の部屋はもちろん住人を失ったわけだが、直後に隣近所も先を争って次々引っ越ししてしまい、この階は完全に無人となったのだ。
他の階でも、住人は、どんどん離れている。金銭的な事情もあってなかなか引越しできない住人だとか、気にしないことに決めた住人が、半分ほどは残っているらしいけど。
……あれ? わたしが今出てきたのは806号室、考えてみれば変な気もする。部屋番号が違う。だってわたしが住んでる部屋は……。
だけど、わたしは今こうして8階の暗い廊下をゆっくり歩いている。これ以上考えても仕方がない。
カラン、カラン……
軽い明るい金属音が、自分のすぐ足元の闇に響く。
涼子は、それが何の音か知っている。
自分の右手が握っている金属バット。引き摺られたそれの先端が、固い床に当たっては小さく跳ねる、その音だ。
足元もおぼつかないほど暗い。手元すら闇の中だが、グリップの感触は手のひらからしっかり伝わってくる。
やだ、わたし、臭い……。
涼子は突如、とても嫌な気持ちになる。不潔な体が、髪が、上下の服が、汗臭いすえた臭いを放っているのが、急に気になり始める。
やがて涼子は、廊下の突き当たり、数メートル四方のエレベーターホールに出る。エレベーターからの薄明かりでかろうじて自分の位置を把握できるだけで、その場所もやはり暗い。真っ暗闇に限りなく近い。
涼子は、何のためにここまで歩いてきたか、分かっている。
エレベーターに乗っている人と逢うためだ。
こんな時間だというのに、ちょうど今、昇って来るのを、知っているのだ。
1階……2階……、エレベーターの階数表示は、音も無く移り変わる。
まだ、押さない。
4階……5階……、涼子の太い黒い親指は、『△』ボタンに当てられている。だが、まだ、押さない。
表示が6階から7階に変わった瞬間、なぶった獲物にトドメを刺すように、涼子はボタンをグッと押し込んだ。
ふふ、と満足げな小さな笑いが込み上げる。ちょっとした意地悪をしたような、簡単なゲームをやり遂げたような、瞬間的な楽しさに包まれる。
涼子は、自分が置かれている状況、自分が今したこと、これからやることに、不自然さを感じていない。自分の考えで、自分の意志で、ここまで来たようにしか、思っていない。
その反面、なんでわたしは今こんななんだっけ? こんなことをしているんだっけ? という疑問も断続的に浮かんでくる。気にしようとしなくても、嗅覚からくる不快感によって思い返さずにはいられないのだ。とにかく頬に垂れた髪が臭い。襟元からも臭い熱気が漂ってくる。口の中もネチャネチャして、歯磨きを怠った時に特有の嫌な味がする。
エレベーターの階数表示が、8階で停止した。
チーンとチャイムの音が鳴るはずだ。それが、聞こえない。廊下のずっと先の方でエレベーターのドアが無音で開く。明るい光が漏れ出してくる。
あれ?
ついさっきまで自分は、エレベーターのすぐ前に立っていて、開閉ボタンを操作したのではなかったか。
それが今は、また廊下の中ほどを歩いている。
カラン、カラン……
バットの音が小さく響く。あいかわらず自分の身体が臭い。エレベーターのドアは、自分が到着するまで絶対に閉まらないことを、涼子は確信している。
エレベーターの箱の中は明るい。ここは二十四時間人が出入りするマンションなのだから、それが当たり前だ。
エレベーターの中から、ただならぬ気配がする。激しく人間が動く気配だ。激しく感情を昂らせている気配だ。
涼子は急ぎもせず、同じ歩調でエレベーターに到達し、中に足を踏み入れようとしていた。
おや? おやおやおや?
中には一人しかいないような気がしていたのに、二人の女性がいる。一人は、さして広くもない箱の隅で腰を抜かしている。もう一人は、髪を振り乱して、操作ボタンを連打している。
あれ? これ、わたしじゃん!
涼子はようやく納得がいく。これまでモヤモヤと漂っていた辻褄の合わなさが、記憶の回復によって霧散した。
そうだった。わたしが、ここで、バットで殺されたんだ……。
ボタンを押していた血みどろの女が、ヒッ、と、声だか呼吸音だか分からない音を発しながら、涼子の方を見た。
その女は、確かに、涼子に他ならなかった。
鈍器で殴り殺された直後の、涼子に他ならなかった。
二人の涼子は、一秒の数分の一ほどの間、茫然と見つめ合った。
まあいいや。でも……。
わたしは、廊下の真ん中で倒れて動けなくなったんじゃなかったかな。多分、エレベーターに逃げ込めなかったんじゃないのかな。逃げ込もうと必死だったけど、顔を殴られた後、また後ろから二回目、頭を殴られて……。
そんなことを考えながら、涼子は、箱の中のもう一人の女に向き直った。
涼子は、バットを振りかぶった。その前腕は、見苦しい剛毛に覆われていた。バットを握る指の背にも濃い毛が見えた。
うえぇ、キモいなあ……
涼子の気持ちが逸れたが、それも一瞬のことだった。なぜ今こんなことをしているのか、疑問はなかった。
この女を殺すために、今、こうしている。
*
極めて自然な動作の流れがあった。
女の絶叫が、恐怖に歪むあられもない顔が、片手をつき出し、逃げ道のない場所で命を守ろうとするその無駄な体勢が、男に、鍋の蓋をとった時のような喜びをもたらした。
バットが風を切って大きく半回転し、一筋の爽快な感覚が、男の右腕をツーンと駆け上った。
4 闇の目
エリカは目を見張った。
エレベーターのドアというものは、相当頑丈なはずだ。それがこのような方法で壊せるものなのか。
固く閉じた観音開きのドアのちょうど顔の高さの辺りが向こうから殴られるたび、左右均等に、こちら側、エレベーターの箱の内側に、徐々に膨らみ始めていた。
それとともに、閉じていたドアの間に、細長い僅かな隙間が開き始めた。
エリカは見た。
黒い縦長の隙間。そこに、一つの目があった。
左右いずれの目とも分からない、しかし、しっかりとエレベーターの中を見通す眼光。一時重労働の手を休め、向こう側からドアに顔を近づけ、こちらを覗いているのだ。
その闇の片目と、エリカの両目は、睨み合った。
エリカに抱かれたアイは、目をつむりグッタリしている。呼吸だけが異様に速い。
その時エリカは思った。
(何か、突き刺すものがあれば!)
ナイフが一番いい。大ぶりのフォークでもいい。気取られぬように近づき、この隙間から、素早くこの暴漢の目を刺す。それしか助かる道はないように思えた。
このまま震えているだけでは、すぐにドアを破られ、自分もアイもこの鉄のドアと同じように醜く変形させられて殺される。それは間違いないことだった。
目は、依然、そこにあった。これまで見たこともないような暗い眼光で、アイとエリカをねめつけていた。
アイの身体をそっと床に横たえ、後ろ手にバッグを探ったエリカは、できるだけ死角になるようにそれを取り出し、素早くドアに近づいた。
目は、依然、そこにあった。
エリカはその目に、ドア一枚隔てた至近距離から、制汗スプレーを噴射した。左手一本での反撃だったが、狙いは外れなかった。
シューッと音を立て長い時間噴霧されたスプレーは、闇の目を通り抜けた。虚しくエレベーターホールの闇に散っていった。エリカには、虚空の闇と、覗く片目とが、二重写しに見えた。
全くダメージを与えることができなかった。
エリカは希望がついえたことを理解し、自分の抵抗の愚かしさに腹が立った。
きっとこいつは、ナイフで刺そうとしても、体当たりをしたとしても、まったく触れることもできないんだ……。
闇の目は全く動じていなかった。エリカがどう反撃しようと意に介さないだろう。ただ自分の獲物であるエリカの魂そのものだけを、見据えているのだろう。
目が遠ざかった。
許された、と思えるはずもなかった。
ドォン!
一秒後、また、攻撃が再開された。
ドアが打ち破られるのは、まもなくだろう。
5 由香、あるいは、蠢(うごめ)く闇
由香は、覗き込んでいた。
覗くという行為を楽しんでいた。
縦に裂けた鉄のカーテンの隙間。目玉一つ分ほどしかない、狭い狭い隙間。
しかしその隙間から、エレベーターの中が全部見まわせる。
由香は、とても気分が良かった。
獲物は怯えている。恐怖の極限にまで追い詰められている。女二人で抱き合って。しかも、少なくとも一人はまだ、万が一助かるかもしれないという愚かな希望すら持っている!
由香は、一歩下がり、太い腕を振り上げた。
再びバットを振り下ろす大きな黒い影の背後に、意志をもった暗闇がドロドロと渦巻いていた。
(2015年 1月)