この世界って実は


「この世界って実は、誰かの夢かもしれない」
 缶コーヒーを飲み干しながら、突然カズーヤが呟いた。
 ヒーロアーキは、こいつもヤキが回ったもんだ、もう二十六だもんな、と、冷蔵庫で冷たい齧りかけのピザを発見したような切ない気分になったが、顔には出さなかった。一方カズーヤは、少し年上のボンクラ仲間ヒーロアーキの瞳に、勝手に微かな輝きを認め、続きを聞いてくれそうだ、と手ごたえを感じた。
「だからさ、悪の科学者の実験台とか? そういう寂しい所で動けない誰かが一人だけいるってのが現実で、俺の人生とかこの家とか街とか、全部そいつの見てる夢なの。科学者に植え付けられた嘘情報なの。どうよ? もしそうだったら、怖いよな」
 ヒーロアーキは、カズーヤが怖いという、その感覚がまず、ピンとこない。
「お前さ、どんだけ暇なのよ」
「は?」
「絶対に分かるわけない、どうでもいいことを考えて、何になるの? つってんの」
 ヒーロアーキはわざと冷たく言った。話題を変えたかったからだ。
 カズーヤは食い下がる。
「だけどさヒーロアーキ。考えてもみろって。この世界の中の物も生きものも人間も、全部ちゃんと存在してるって、俺たち信じてるだろ? だけど、もしかしたら、この世界って実は、誰か他人の夢かもしれない。実験室の水槽の中に、いっぱいコードが刺さったまま浮いてる、剥き出しの脳味噌が見ている、嘘の現実かもしれないんだよ!」
 ははあ、なるほどな。ヒーロアーキには察しがついた。カズーヤは無職をこじらせて、つまり無限の自由と退屈とニヒリズムをもて余して、つい哲学入門っぽい本にでも手を出しちまったんだろう。その受け売りで、今やこんな、カルト宗教の信者みたいな、邪魔くさい感じを漂わせてるわけだ。
 真面目に論破してやるか。
 ヒーロアーキは少し意地悪な気持ちになった。ヒーロアーキは正真正銘のインテリだった。ただし「元」であった。当人も気づかぬところで無駄なプライドが足を引っ張り、今では、カズーヤと全く同じ境遇で、金と女に飢えながら、働きもせず惰眠を貪る日々を送っていた。
「あのな、カズーヤ、話を整理しようか……。俺達が現実だと思ってるのは、実験室の脳が見せられている嘘の現実かもしれない、って言ったっけ?」
「言った」
「それ、どうやったら分かるんだ? かもしれない、かもしれないって言うけど、その説が正解か不正解か、どうやったら分かるんだ?」
「んん?」
「お前は勘違いしてるの。たとえ話をしようか。昔々、若者がいました。この海の向こうはどうなってるんだろうって、いつも考えてました。爺さまは、この世界はまっ平らでこの陸地だけが世界の全てで海の向こうなんて何もない、と力説する。だけど、それが本当か、若者は確かめたい。さあどうする?」
「船を作れば、いいんじゃねえの?」
「その通り。センス良いな。若者は船を作って、その国で初めて海を渡った。そしたら自分の故郷なんてちっぽけな島で、海の向こうには大陸があって、別の言葉を話す別の国があって、地球は丸くて、って、全部分っちゃったんだな」
「おうおう、いいじゃん。かっこいいじゃん、そいつ」
「お前がさっき言ってた話も、このイメージに乗っかってるから、変なんだよ」
「んん?」
 カズーヤは、自分が責められるとは思ってもいなかった様子だ。
「じゃあお前は、どうするんだ? ロケット作って、この世界の果て、とやらにでも突っ込んでいくのか? どこだよ、そこ? それにな、そもそも夢の中の材料を使って、夢の中で作ったロケットに乗って、夢の外に脱出できると思うか? できるわけねえよな。船の話との違い、分かるか?」
「うーん、全然分からなくなってきた」
「簡単に言うとな、夢の中と外では、存在って言葉の意味合いが違うんだ。存在のレベルが違う、と言ってもいい。『俺が今ここに、存在している』って言う場合と、『俺の夢を見ている実験室の脳味噌が、存在する』って言う場合とでは、存在って言葉が同列じゃなくなってる。これがパラドクスのからくりさ。夢の中にいるんだから、夢の中の奴は夢の外を見ることなんかできないんだし、存在のレベルをまたいで、『この世界の外から見れば、この世界は夢だ、存在しないんだ』とか言うのも、ちゃんちゃらおかしいわけだ」
「……、じゃあ、悪の科学者の実験室なんてありえない、とヒーロアーキは言いたいわけ?」
 多分、あまり理解してもらえてないな、とヒーロアーキは推測した。
「いや、だからさ。絶対に分からないことを考えてもしょうがない、って俺は最初に言ったはずなんだが。ここは夢の中だ、っていくら言っても、周りにある物は全部夢の中の物質でできてるんだから、夢の中の人にとってみれば、立派な現実なの。そこからは絶対脱出できない現実なの。分かる?」
「じゃあさ」
 カズーヤの目が急に、奇妙な納得の色、というより一人合点の色を強く帯び始めたので、ヒーロアーキは不安になった。
「この世界は実は……、って考えても、答なんか出ない、だから考えても仕方がない、とヒーロアーキは言いたいわけだ?」
 すんなりと、カズーヤは自分が説得しようとした結論に辿り着いた。少なくとも、ヒーロアーキは一瞬そう思い、少しホッとした。
 しかし、カズーヤはそれでは終われなかった。
「でもさ、好き勝手に空想するのは、俺の勝手だよな?」
 そんな、表現の自由、思想信条の自由みたいな話にすり替えられてもなあ、ヒーロアーキは間を持たせるため、カズーヤに倣って煙草に火を点けた。

 しばらく無言で宙を見つめ、たっぷり時間をかけて煙草二本を灰にしたカズーヤは、突然「うおおおおおおお」と叫んだ。
「どうした? アメリカ見つけたコロンブスみたいな声出してよ」
 ヒーロアーキは嫌な予感がした。『……でもさ、突然夢から目が醒めることって、実際あるよな。目覚めた瞬間、さっきまで現実だと思ってたのは夢だった、って分かることってさ』などとカズーヤが言い出すのではないか、と思い至ったのである。そういう話になると、そのストーリーもまた単なる空想の一種であることを、何十分も力説せねばならない。つまり、そろそろ面倒臭くなってきたのだ。
 カズーヤの自由な精神は、しかし、その遥か上に飛び立った。
「ただ空想するだけなら、良い考えがあるぞ! 俺、突然閃いちゃったもんね。さてヒーロアーキ君」
「……はいはい」
「美少女がいました。あ? ヒーロアーキが最強の美少女だと思うイメージを、勝手に思い浮かべとけよ。いいか? 想像したか? その美少女はね、一つだけ変な癖があるんだ。その子は、いい歳して定職にもついてねえボンクラ兄ちゃんを心の中で思い描いてだな。ああうん、勝手にその子が創り出した想像のキャラクターだな。そんでな、毎日毎日、あの人、今何してるんだろう、とか細かく妄想するのが趣味なんだ」
「何の話か、全然見えてこねえな」
「鈍いな、センスねえな」
 ヒーロアーキはかなりカチンときたが、ぐっと堪えて、話の続きを請うた。
「その美少女が妄想の中で飼ってる兄ちゃん、それが俺たちなのさ。俺たちは、この世界の中じゃちゃんと生きて、ちゃんと自分で考えて行動してるように、自分でも信じてるわけだ。それは、この世界の中では、本物の現実だ。でも一歩世界の外側に出れば、全部美少女の妄想にすぎないの。どうよ」
「なるほどな、悪の科学者の実験の代わりか」
「その通り! よっぽどこっちの方が華やかだろう? 違う?」
 答など出ない、と言い切ってしまったヒーロアーキは、頷くしかなかった。
「そんでな、一番大事なこと教えてやろうか」
「?」
「その子はな、妄想の中で大事に育てたボンクラ兄ちゃんが、可愛くって可愛くって仕方がないんだよ。すげえ大事に思ってる。毎日気にして、毎日一喜一憂してる。どうだ、俺たちってば、創造主に愛されてるんだ。生きる元気が湧いてくるだろう?」
 湧かねえよ、とヒーロアーキは言いかけたが、言わなかった。話に乗っかってやろうという気分になっていた。カズーヤの突飛な想像力に、半ば呆れ、半ば感心していたからだ。
「どうせなら、そっちの方が全然気分良いな」
「だろだろ? そんでな、俺たちの運命も命も、その美少女次第なんだよな。今日はちょっと良い目を見せてあげよう、とか、たまにはしょんぼりイベントも必要よね、とか、毎日考え続けてるからな。そいで、彼女が飽きたり、もう話続かないよぉ、ってなったら、俺たちは消えてしまうんだ。俺たちってば、美少女に全存在を支配されてんだ。なんか、それって良くないか? ウキウキしてこねえか?」
「しねえよバカ、ド変態じゃあるまいし!」
 今度こそ声に出して返しながらも、あまりの馬鹿馬鹿しさに、いつしかヒーロアーキも苦笑を堪えきれなくなっていた。
「それでな、



                *

「あーあ、ダメだこりゃ。飽きた! もう話続かねえや」
 作家はボリボリ頭を掻きながら、ウィンドウの『閉じる』ボタンに、マウスポインタを合わせた。
 カズーヤとヒーロアーキにとってまことに気の毒なことに、作家は美しくもなければ少女でもないただの中年男であり、しかもカズーヤとヒーロアーキは、作家に愛されてもいなかった。

 

(2014年 3月)