大賢帝ディオゲネス



―前編―



 2016年12月 元・大賢帝ディオゲネス側近団団長 佐藤栄一 記す

 今にして顧みれば、大賢帝ディオゲネスは、もとより狂っていたのだ。
 極めて早い時期からそうであったに違いない。遅くとも、東京を支配下においたあの日には、完全に狂っていたのだと私は思う。
 我々都民は、あの時からずっと、狂人の支配を歓迎し賛美し浮かれ立っていたのだ。私は、そう言わざるを得ない。
 この二十一世紀への復活に際して、不完全な黄泉帰りによって魂の一部が欠けたのか、天界におわす際に魂に異常をきたしたのか、あるいは一度目の生涯の頃から変わらずこのままだったのか。
 それとも、この現代都市の汚れた空気を吸ったことで、心の歯車がずれてしまったのかもしれない。
 今となっては、その原因は、誰にも分からない。



   



 大賢帝ディオゲネスは、降臨のあの日から、およそ二か月、この東京という大都市のあちらこちらを歩き廻り見て廻り、「善」と「悪」の在処を見極めて廻っていた。

 その姿は、光り輝く人ならぬ人、神々しく芳しい、人の形を借りて顕現した叡智そのもの、といった風では全くなくて、さながら、今では特段珍しくもない、外国人浮浪者そのものであったという。
 放浪時代の目撃談が曖昧で、また誤認の疑いが強い報告も多く、その足取りのほとんどが謎に包まれているのは、そういう事情によるものである。
 比較的信頼に足る、数少ない目撃証言によれば、放浪の日々の大賢帝の様子は、「あしたのジョーのカーロス・リベラみたいだったね、もちろんホセ・メンドーサに負けた後の、ね」ということである。
 これは同じ公園の隅で共に一夜を過ごした、年老いた無宿人の談である。
 その最初の放浪の日々、大賢帝が何を目にしたのかについても、あまり多くのことは分かっていない。
 しかし、このボロをまとった大賢者が、新宿東口広場、いわゆるアルタ前広場で一旦名乗りを上げた時には、すでにこの巨大都市東京についての全てを理解し終えていたのは、おそらく間違いない。
 この異邦の地の複雑な言語、すなわち現代日本語ですら、この短い放浪の期間に完全にマスターしていたのだから、政治経済地理地勢社会制度人心の仕組みを理解することなど、大賢帝の無限の知性の前では、造作もないことであっただろう。

 放浪の日々については、虚実半ばする多くの逸話が語られ、信用に足るものは少ないが、降臨の際の逸話については、大部分一致する複数の証言が存在する。
 大賢帝ディオゲネスは、あの日、東京都新宿区西新宿八丁目、すなわち青梅街道のすぐ北、街道南側に屹立する新宿副都心超高層ビル群とは対照的な、小さな住居の密集した地域の、小さな一戸建ての小さな庭の小さな犬小屋の中に突如出現し、目を覚ました。
 ちなみに、その降臨の場となった会社員細山某の邸宅は、大賢帝治世末期の混乱の中で焼き討ちに遭い、更地となった上に、その後、近隣住民もろとも消失した。
 これが、降臨の日の出来事を完全に特定することを妨げている原因である。
 また、風呂の湯の底から現れた、という説も一部で流布しているが、これは数年前に流行した全く無関係な漫画あるいは映画の内容との混同による、誤った都市伝承である。

 降臨の瞬間の様子について、細山某の年老いた父親の証言が残されている。
 老人は、日課である狭い縁側での日向ぼっこ中に、降臨を偶然目撃したのであった。
 それによれば、事実は、ほぼ間違いなく、以下の通りである。
 2013年6月2日、初夏の眩しい日ざしの下での出来事であった。

 大賢者は、おそらくは胎児のように丸まって、その犬小屋の内部に突如出現した。
 犬小屋が、子宮となってディオゲネス二度目の生を受胎したのである。
 だが細山邸の犬小屋は大樽にあらず、人間一人の肉体を収めるには小さすぎたため、即座にはじけ飛び、バラバラになったという。
 大賢者は無言で立ち上がった。そして、この二十一世紀日本の土を、初めて踏んだ。
 前回の生涯を送った古代ギリシアとは全く違う風の匂いや町並みに、この大賢者は、一体何を思ったことだろう。
 大賢者は、腰を抜かし絶句する細山翁には気づかず、おもむろに細山邸の前の狭い道路に彷徨い出て、初めての日本人と遭遇する。その初老の婦人は、服を着せたダックスフントを連れていたという。
 この犬は、先ほど破裂した犬小屋の主である、という説もあるが、細山邸の当時の飼い犬の犬種は特定されていない。細山一家と近隣住民が今では全員消息不明であるためである。

 大賢者は、その黒い背の低いダックスフントに目を奪われ、数秒の観察ののち、天を仰ぎ、こう呟いた。もちろん古代ギリシア語で、であり、内容は複数の証言を基にした推測にすぎないのではあるが。
「人が、自然と生命の摂理を捻じ曲げ、このようなものを作り上げて、よいものだろうか。いいや、よいはずがない」
 そして、ダックスフントを、正確にはその短い四本の脚を、指さした。
「ここに、悪がある」
 即座にダックスフントの四本の脚の付け根から、ゴキゴキゴキゴキッと大きな音が響いた。
 その脚は亀が首を伸ばすように、ニョキニョキと長く伸び始めたという。
 新たな十全たる四肢を得た犬は、即座に走り出した。
 飼い主の婦人に飛び掛かり咬み殺したとも、歓喜に包まれ、いずこともなく走り去った、とも伝えられており、この点だけは見解の一致をみない。

 だがともかく、このように伝えられる大賢者ディオゲネスの降臨と、それに続く超常能力の発現については、議論の余地なき史実であると認定して差し支えないだろう。
 すなわちこれが、ディオゲネス最初の奇跡であり、最初にこの現世にもたらした「善」であった。



   



「我が名はディオゲネス、犬のディオゲネス、樽のディオゲネスにして、ソクラテスの弟子アンティステネスの弟子、ディオゲネス」
「我は何故ここに二度目の生を授かったかは知らぬが、今我が心の欲する先は知っている。すなわち、我がこれから何を為すのかならば、知っている」

 2013年8月1日のことであった。
 周知の通り、ディオゲネスは、新宿駅前で名乗りを上げたその直後、東京都および日本国家を支配下に置く。
 間を置かず、国連やアメリカを筆頭に、世界の全ての大国と国際政治機関も、大賢帝に膝を屈することになる。
 この日より、この時を超え現われた大賢者は「大賢帝ディオゲネス」と呼ばれることとなる。
 もっとも大賢帝という尊称は、自ら名乗ったものではない。自然発生的に、我々都民がそう呼ぶようになった、というだけのことである。当人も、そう呼ばれることには何の抵抗も見せなかった。
 また、全世界の屈服については、大賢帝ティディオゲネス登場の間接的な影響力の甚大さを示す付随的事実に過ぎない。それは、大賢帝の意志の方向性や関心の範囲を示すものではない。
 確固たる事実として、大賢帝ディオゲネスの統治者としての関心は、専ら東京都の範囲内に限られていた。
 東京での改革は、不可避的に日本国全土に波及するとはいえ、大賢帝は明確に、自ら、次のように宣言したのである。
「我はこれより、この地に善をもたらすため、我が手で、かつ、我が手のみによって、この都市東京の統治を開始する」と。

 全世界の支配者たらんと欲しなかったのはなぜか、という問題については、あの日以来多くの推測がなされた。
 都市国家ポリスを単位とする、古代ギリシア人的な発想であろうというのが通説である。
 しかし、前世よりディオゲネスはそのような思考の枠組みに囚われてはいない、という強い反論もある。
 私見を述べれば、前述の通り、遅くともこの時には大賢帝は狂気に陥っていたと考えるべき理由があり、狂人の言動の「理性的な」理由を推察することの一抹の虚しさを、私はここに感じざるを得ない。
 いや、それでも、治世の最初から最後まで側近団長として傍に仕えてきた私は、「感情的な」理由ならば、推察することができるようにも思う。
 それについては後述する。

 ちなみに、この最初の宣言がなされた瞬間、当時の都知事は、都庁執務室内で塩の柱となった。
 この件をもって、一部の史家は、ディオゲネス最初の、確認された殺人である、と断ずる。
 最初の放浪の日々に殺人を犯していないという断定はできないものの、確認された史実としては、間違いではない。
 しかし同時に、我々は誰一人としてあの時、大賢帝ディオゲネスを非難しなかったことも忘れてはならない。
 大賢帝は、統治宣言と同時に都知事と取巻きを一掃し、五秒後には、あの偉大なる善政を開始したからである。

 ボロをまとった、あるいは、半裸であったと言っても差支えないこの垢にまみれた外国人が、完璧な日本語でいきなり統治宣言を行ったその直後、新宿東口一帯は、「沸騰した」と伝えられる。
 突如アスファルトを割って無数の花が生えた、とも、空から無数の花が降ったとも、天上の調べが鳴り響いたとも、東口から歌舞伎町に続く一帯のネオン装飾が一斉に光り破裂した、とも、その場にいた男性全てがギリシア彫刻のような筋骨隆々の美貌に変じたとも、汚れきった新宿の空気が一気に高原のそれのように爽やかになった、とも、女性が皆ミロのヴィーナスさながらの黄金比のスタイルに変じたとも、新宿中のホストやスカウトが皆禿頭に変じたとも、ヤクザやチンピラや犯罪者が皆子供のように泣き出し、母の名を呟いた、とも。
 すべてが事実ではないかもしれないが、このうちの大半は実際に起きたことだと思われる。
 この広範な奇跡を目の当たりにして、大賢帝の潜在的な「力」を恐怖しこそすれ、鎮圧、あるいは、いかなる種類であれ政治的軍事的交渉や懐柔を持ちかける、気概のある政治家や政治組織など、地球上に存在するはずがない。
 潜在的な脅威とみなして暗殺者を差し向ける権力筋すら、全く存在しなかった。
 大賢帝の登場という出来事には、そういう強硬手段さえ躊躇させる、圧倒的な迫力があった。
 無理もないことであろう。
 いずこかの権力者が、仮に鎮圧や暗殺を命じたとしても、この超人の能力によって事前に看破されてしまうかもしれず、そうやって作戦が失敗に終われば、それを命じた某国大統領の頭が逆にスイカのようにはじけるかもしれず、あるいは、一国が焦土と化す、と想像することすら、杞憂ではないのである。
 手の内の全てを未だ見せていない魔術師に立ち向かい得る武力など、存在するはずがない。

 大賢帝は、東京都政を牛耳るにあたって、都庁舎を乗っ取るような手間をかけなかった。
 新宿駅東口広場で宣言をし、奇跡を起こした直後、地下への階段を下り、西口地下道のモニュメント、いわゆる〈新宿の目〉の前に、静かに腰を下ろす。
 そして、また宣言した。
「今後は、この場所を、我が住居とし、我が執政の場とする」
 かくしてその時より、〈新宿の目〉の前の舗装通路、その数平方メートルに陣取る、日に焼け垢にまみれた浮浪者同然の白人男性が、東京の、日本の、世界の中心となった。



   



 その後のことは、我々都民があまねく体験した通りである。

 特段、日本が、東京が、大変化を被ったわけでも、独裁者に隷従を強いられたというわけでもなかった。
 少なくとも、最初のうちは。都民の暮らし、社会の形は、ほとんど変わらぬままであった。
 しかし「うまく」、いや、「理想的に」、東京は、日本社会は、回転していた。そこが大賢帝統治前との大きな違いである。
「東京は、古代ギリシアの薫風に包まれた」と広く言われるとおりの状態を、多くの都民が享受した。
 大賢帝の改革の特色は、次のようなやり方にある。
 個人の形をとって存在する「悪」は容赦なく潰し、構造上存在する「悪」は排除後の影響を可能な限り考慮しつつ慎重に潰してゆく。
 一つ一つ、順に個別に「悪」を滅ぼしてゆく。さながらピンポイント爆撃の様相である。

 大賢帝は常に、地下道に敷物も敷かずにだらしなく座り、あるいは寝転がり、時に千代田区の地図を、時に渋谷区の地図を、軽く握った左手の中指だけを立てた、いつもの形で、指さすだけであった。
「ここに、いまだ悪がある」
 そして、静かにその中指を持ち上げ、天に向けて突きかざす。
 大賢帝の中指の爪は、そびえ立つ叡智の山の頂の宝石のようだ。
 毅然たる態度で、素早く、しかし静かに、中指を地図の元の場所に突き立てる。トン、と小さな音がする。
「而(しこう)して、今、悪は滅んだ」
 我々側近団には見慣れた光景である。裁定が下される、厳粛な瞬間である。「悪」がまた一つ、消滅する。

 最初のおもだった標的は、資本主義システムの寄生虫である富裕不労所得者と、合法非合法問わず悪行により不当な財を成す者たちであった。
 といっても、大賢帝は経済制度の大改革を断行して金の流れを変えたのではなかった。
 ディオゲネスは、よく知られるように、インドのサドゥーにも似た禁欲主義者であり、したがって、身に余る物質的な贅沢を享受する者を「悪」と断じたのに何の不思議もない。
 しかし都民に自分と同様の「善き」生活スタイルを強要しようとはしなかった。
 都民全員が浮浪者になることを強いられては、たまらない。ディオゲネスはそうは望まなかった。また、同時に、この人物は、共産主義革命も無政府主義革命も目指してはいなかった。

 さて、この奇跡の瞬間、地図のその場所では、実際に何が起きていたのだろうか。
 その実情を目の当たりにした者は、非常に少数である。それゆえ、「多くの悪人が大賢帝の手によって命を奪われ、その財産を没収されたのだ」という不正確な憶測が、半ば一般常識のように広く信じられている。
 だが、私佐藤栄一は、大賢帝についての事実を記す者の責任の一端として、この場で真相を明らかにせねばならない。
 私は、ある一つの奇跡の実例を、実際に見たのである。
 それは、奇跡と呼ぶにふさわしい、辻褄の合わぬ、奇々怪々な光景であった。

 大賢帝が改革を開始して数日、それをただ横に座り見ているしかなかった私は、ついに大賢帝に尋ねた。
「大賢帝よ、悪であった者は、どうなったのですか?」
 大賢帝は不敵に笑った。
「佐藤よ、文京区目白台の、この住所に行ってみるがよい」
 前日大賢帝が指を振り下ろした住所であった。私が訪ねたそこには、何事も無かったかのように、豪邸が門を構えていた。
 奇妙なことに、私はすぐ中に通され、豪邸の主、鳩原某と面会した。
 私の目の前に座ったのは、贅沢極まりない部屋着をまとった、木偶(でく)人形であった。私は絶句した。
 木偶人形は、平然と名のった。
「大賢帝ヨリ、オ話ハ伺ッテオリマス。私ガコノ家ノ主、鳩原デス」
 木偶人形が、昨日までこの屋敷に住んでいたはずの、不労超高額所得者と、すり替わっていた。
 私はこみ上げる全身の震えを、隠すことすらできなかった。
 おそらく、この木偶人形はこれから数十年、財産を受け継ぎ、働きもせず、贅の限りを尽くした消費活動を、淡々と行うのだ。楽しみもせず、喜びもせず。
 もしかしたら資産運用によって、さらなる蓄財を行うかもしれない。

 お分りだろうか。
 そう、その通りである。昨日までこの立場にあった者、そして大賢帝に断罪された者、鳩原某の、日々の暮らしと全く変わることない日々を、これからはこの木偶人形が送るのだ。
 大賢帝は、財産没収などという強硬手段によって経済を滞らせる必要などなかった。
 大賢帝は、ただの統治者ではない。奇跡を自由自在に操る独裁者なのだ。

 私は慄然として〈新宿の目〉に帰った。
 大賢帝は、側近団に作らせた博多トンコツ味のカップラーメンを、不味そうに食べていた。
「戻りました。大賢帝。見てまいりました……。大賢帝は、あの屋敷の住人を、……抹殺されたのですか?」
 大賢帝は、口の端からインスタント麺を一本ぶら下げながら、不敵に笑った。
「あの者はすでに、身に余る幸せを、享受し終えていたのだよ」
「……」
「そして、そういう者は、浪費をするという、経済の歯車としての役割しかない。人間の魂がそこに在る必要など、無いのだよ」

 かくして、不労所得者の高級マンションや豪邸の数々には、いまや木偶人形が住まい、それまで通りの財産管理を行っている。
 私は便宜上「断罪」という言葉を使ったが、これは、大賢帝のなした事の記述としては的確ではないかもしれない。
 大賢帝が行ったのはむしろ、「幸福の分配」の、改善と整理であった。
 それまで、過剰に財産に基づく幸福を貪っていた者は、今後も死ぬまで約束されていたはずの幸福の受け取り分を、剥奪された。
 そしてその幸福は、目に見えぬ形でそれ以外の人々に再分配された。
 ある者は「偶然」念願の子宝に恵まれ、ある者は「偶然」理想的な炒め具合のチャーハンを食べることができた。

 東京中の、いや、日本中世界中の人々は、大賢帝の改革の進行をヒシヒシと感じていた。
 富の平等化が全体を富ますわけではないが、幸福を均等化すれば全体が以前より幸福になることを、大賢帝は、この見知らぬはずの二十数世紀後の世界で、即座に見てとったのであった。
 我々側近団は、全知全能の大賢帝の前では専門的助言の機会もほとんどなく、主だった仕事はコンビニエンスストアへの使い走りと、続々来日する各国首脳への応対ぐらいのものであった。
 若く有能な側近の一人は、EU代表に上手い説明をしたものだった。
「例えば、上司が貧しい部下に酒を奢る、このことの本質は、財の再分配ではない。幸福の、再分配なのです。
 本当に財を分け与えたいだけなら、現金を渡せばよいはずですから。
 大賢帝は、東京全体で、この幸福の再配分をやっている最中なのです」

 このようにして、大賢帝は個別に「悪」を、何らためらうことなく、本棚の倒れた本を次々直してゆくように、手際よく整理していったのであった。

 大賢帝は、なにも、財がもたらす幸福の再分配だけを行ったのではない。
 情報の、人口の、空気の清浄さの、テレビの映り具合の、ファストフード店の密度の、交通渋滞による不利益の、あらゆる再分配を、その中指一つで遂行した。
「ここに、いまだ悪がある」
 いつもこの調子である。

 とはいえ、大賢帝は全てを平坦化したわけではない。
 大賢帝の「善」は、「平等」という言葉と置き換えられるほど単純なものではない。
 大賢帝は、決して平坦化など目指していなかった。大賢帝は様々な偏りと多様性を残した。その偏りと多様性によって、むしろ全体の享受する幸福は最大となるのである。
 これこそが、世を治めるということであった。
 これまでの歴史上のあらゆる統治者は、大賢帝と比べれば、権力の最上層に立ってマゴマゴしていただけである。
 もちろん、大賢帝は全知全能無限の超常能力を好き勝手に振るうのであるから、過去の統治者たちを非難するべきではないのは明らかなのだが。
 大賢帝が手を加え続けた新しい東京都の形は、あたかも、理想的な配置で絵の具を置かれた名画のようであった。



   



 大賢帝ディオゲネスの登場から半年が経った。

 改革は完了した、と誰もが感じていた。子供じみた拙い表現を許容していただけるならば、都民の顔が皆、以前より、ニコニコしていた。
 私は、これ以上的確な表現を思いつかない。

 しかし、側近団だけは怯えていた。
 いまだ、大賢帝の苛立ちが止まぬからである。間違いなく、いまだ大賢帝は、何かに怒り苛立ち続けていた。

 側近団は十二名から成る。さながらキリストの十二使徒のようだ、とはよく言われることであるが、我々は自主的に集ったのではなかった。
 統治宣言のその日に、大賢帝に指名され、任命されたのである。大賢帝の叡智により選び抜かれた我々は、誰一人として、任官を拒む者はいなかった。
 己の使命、すなわち大賢帝の手足となって働くことに納得するはずの者を、もとより選んでいたからである。
 ただし、忠義心、新たなる統治者への信奉が、第一の選抜理由ではなかった。いや、そもそも、それは一切、必要とされていなかった。
 我々側近団は、唯一、実務能力だけによって、必要最低限の人数が選抜されたのだ。
 ある者は経済のエキスパートである元高級官僚であり、ある者は十二か国語を話す元比較言語学教授であり、ある者は元、東京中の道路を熟知するベテランのタクシー運転手であった。
 我々は、お互い、腹の内を話し合うことはなかったが、皆有能であるがゆえに、大賢帝の施政に従い、力を貸すべきだということは理解しており、そしてよく働いた。
 我々は、大賢帝の小間使いとして、よく働いた。

 少なくとも、統治の初期は、側近団は、ただ大賢帝に従い、驚き感嘆し、納得し、全てがうまくいっていた。
 ただ、大賢帝の苛立ちが、いくら改革が進んでも一向に治まらぬことに、我々は底知れぬ不安を感じていた。

 破局の始まりは、或る冬の日、いや、伏せることもない。全世界がはっきり記憶しているあの日。つまり2014年2月24日。その日に、唐突に起こった。
 大賢帝は、おもむろに、東京の地図上の或る建築物を、苦渋に満ちた顔で指さした。
「いまだ、ここに、悪がある」
 そこは新宿駅であった。

 なぜ公共施設が指さされたのだろうか。
 我々側近団は、顔を見合わせ、首を傾げた。
 例えば駅長であるとか、特定の人物が指さされたのではない、ということは分かっていた。仮に特定人物ならば、これまでなら例外なく、その者の邸宅が指さされるはずであったからである。
 したがって、側近団の誰かが裏切りを働き、新宿駅とほぼ同位置に在るまさにこの〈新宿の目〉が指さされたのだ、という仮説も成り立たない。
 我々側近団は、何か巨大なシステム全体が「悪」であると断じられた、と理解した。だが大賢帝の意図の詳細は、いまだ誰も分からなかった。

「大賢帝、新宿駅を中心とした人の動きの一極化が、悪なのでしょうか?」
 大賢帝は首を横に振った。ますます、苛立ちが募っているのが見てとれた。
 大賢帝は、もはや怒気が籠り始めた口調で、こう言った。
「そのような、抽象的なことを問題にしているのではない」
「……と、言いますと?」
「この、建造物だ。これの形状が問題なのだ。この建造物の在り方が、すなわち、悪なのだ」

 側近団は、やっと理解した。全員の顔が、血の気を失った。
 我々は初めての忠言に踏み切った。
 最初に口火を切ったのは、恥ずかしながら私ではなく、一番若い吉田重春という元中央官僚だった。EU代表に幸福の分配の説明をした男である。
「申し上げます! 大賢帝ディオゲネスの御力をもってしても、毎朝新宿駅に殺到する数百万の乗降客を、一日たりとも食い止めることは不可能です。
 なぜなら、奇跡の御力でそれを成し遂げたとしても、それだけで、日本経済が大打撃を被るからです」
 しかし大賢帝は止まらなかった。
 忠言の内容など、百も承知であった。
 大賢帝は、その時、手掴みで食べていたインスタント焼きソバを、ひと塊、膝の前の床に置いた。
 もつれ合ったその麺の一本一本を解き、伸ばし、床に貼り付けてゆく。
 我々側近団は、無言で見守るしかなかった。
 やがて、十数本のそれは、綺麗に平行に並んだ。
 大賢帝は顔を上げ、側近団に語った。
「これが、善である」
 そして、続けて、こともなげに言い放った。
「新宿駅、すなわちJR私鉄地下鉄各線の全体に、退避命令を」
 大賢帝が、地図の新宿駅に中指を突き立てたのは、それからきっかり1時間後のことであった。

 ズズッ、と新宿駅全体が重苦しく軋んだ。
 その次の瞬間、新宿駅の駅ビルを構成する物質は、地下深くまで全て、幾億の黒い蝶の群れとなり、渦を巻いて空高く舞い上がった。
 そこには巨大な穴だけが残った。
 当然、大賢帝と側近団が車座になっていた〈新宿の目〉の直前まで、その黒い大奇跡は迫っていた。
 〈新宿の目〉のすぐ傍に、さながら地獄の口のように、崖っぷちが現われた。
「太陽が見える……」
 側近の一人が呆(ほう)けた声を上げたのを、私は今でも憶えている。

 消失した新宿駅の跡地、その大穴に、新宿中の野次馬が押し寄せたのは、その直後であった。
 切り立った崖に等しいその穴に、うっかり押されて転落した者は数百名を下らなかった。
 〈新宿の目〉からも、落下する人々が大勢見えた。我々側近団は、ただ見ているしかなかった。
 大賢帝の顔には、僅かに微笑が浮かんでいた。大賢帝は、ひととき、満足していた。
 言うまでもなく、退避命令を聞き逃し、あるいは無視して、新宿駅と命を共にした犠牲者も多い。
 一説によると数万人に達した、とも言われる。

 以前より大賢帝は改革において、しばしば偏りを残した、ということを、すでに述べた。
 それは、最善を実現するための計算に基づくものであった。少なくとも、そう思われていた。
 だから、側近団は、このたびの数万人の死者は、「偏り」なのではないかと推測した。最善を実現するための尊い犠牲なのだ、と。
 いや、そう結論するより他なかったのだ。在野の知識人も、他国のブレインも、我々側近団も。
 ことに、我々側近団は、皆、大賢帝の狂気をヒシヒシと感じていたにもかかわらず。

 大賢帝は、賢明にも、新宿駅消失という大惨事を、自分の仕業であるとは、公的には明言しなかった。
 大賢帝が「神の雷(いかずち)である」とだけ述べたのは、周知の通りである。
 側近団の忠言通り、東京の経済活動は大混乱に陥ったが、それに伴う膨大な損失については、大賢帝は素知らぬ顔であった。
 我々側近団は、互いに意見交換をすることが、ほとんど無かった。
 我々は表向き、個人的感情や意志をもたぬ統治のための道具、手足であり、また陰で大賢帝を論評することそれ自体が、大賢帝への背任行為だからであり、つまり、結局のところ、我々は、罰を恐れていたのである。
 だが、私だけではあるまいと思う。この時初めて浮かんだ疑念をグッと飲み込んだのは。
 すなわち、「もしかしたら、大賢帝の統治の目的は、都民の幸せになど、ないのではないか?」という恐ろしい疑念を。

 「神の雷」という発言についても、一言述べておきたい。
 これまで大賢帝は、自分の奇跡を一度も、神の御業である、と言ったことがなかった。このことは、ほとんど誰も気づいていなかったことである。
 しかし、今ここにすべての経緯を正確に記録しようと試みる私は、言わねばならない。
 この時を境に、大賢帝は変質したのであった。
 この時、狂気に憑りつかれた、という意味ではない。
 この時から、狂気の牙を隠そうとしなくなった、という意味である。

 周知の通り、突如消失した新宿駅は、突貫工事によりひと月足らずで再建された。
 常識外れの早さであって、ここにも「奇跡」が作用したに違いない。
 通勤通学手段を奪われ不都合を被った者も、身内を失った者も、皆沈黙するより他なかった。
 全ての都民は、大賢帝の引いた新新宿駅の図面に、感嘆した。
 そして実際に工事が終わり再開放された駅舎に足を踏み入れた者は皆、心の底から称賛の声を上げた。周知の通りである。

 新新宿駅は、1番線から40番線まで、JR私鉄営団都営地下鉄の全てが平行に並び、北、中央、南の三本のコンコースにムービングウォークが設置された。
 さながら、伸ばされ並行に並べられた、インスタント焼きソバの麺そのものであった。
 1番線の中央線快速のホームから40番線の京王新線まで、2分で移動できた。初めて来日した外国人でも絶対迷わない。
 旧新宿駅は、丸ノ内線から近接する小田急線に乗り換えようとするだけで、奇々怪々な立体迷路の餌食となる者が続発していたというのに。
 新新宿駅利用者は皆、胸のつかえが取れたかのようであった。
 いや、長年の無駄な苦役から解放されたかのような、喜びに満ちた顔をしていた。
「なんでこれを、これまで誰もやろうとしなかったんだろう?」
「これまでの政治家が、みんな馬鹿だっただけさ」

 これが善政だ。都民は、心からそう感じていた。


後編へ続く