大賢帝ディオゲネス



―後編―

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 今になって思うに、大賢帝ディオゲネスは、統治宣言の当初より、東京という都市を愛してはいなかった。
 むしろ東京の有様を、憎悪していたのだ。
 常軌を逸した粘着質な憎しみの標的、復讐のための蹂躙の対象として、東京は、彼の狂気に目をつけられてしまったのだ。
 そう考えるのが、一番自然であるように、私には思われるのである。

 かくして。

 大賢帝はまだ苛立っていた。
 新新宿駅の完成を見届けた大賢帝は、当然の移り行きではあったが、今度は、東京駅、池袋駅、渋谷駅、上野駅など、あらゆる混線駅を矢継ぎ早に消失させていった。
 焼きソバの麺のもつれを、ほどきたかったのである。
 もはや、側近団は大賢帝の狂気を認めないわけにはいかず、しかし、それでも、ただ沈黙していた。

 一部都民も怒っていた。
 人間は身内が死ぬと怒るものである。
 新宿駅の被害者家族は、世論の歓迎ムードに沈黙を強いられた。さらに巨大駅が一つ消失する度、徐々に遺族の数は増加してゆく。
 しかしそれでも、ほとんどの都民は、身内を失っていないので、大賢帝のもたらす大いなる「善」を、ただ家畜のように甘受するのみであった。
 言うまでもなく、奇跡の塊のような大賢帝に対するテロ行為など、絶対に不可能である。
 大賢帝が不死身であるからではない。
 そもそもすべては未遂に終わる。
 息子の仇をうつため大賢帝に石を投げようとした老婆は、即座に数百万のナメクジとなって崩れ落ちた。そういうものである。
 新宿から遥か離れた江戸川区で大賢帝を暗殺するための爆弾を作っていた若者のグループは、突如飛来した鴉の大群に襲われ、全身を啄(ついば)まれて、それはそれは惨い最期を遂げた、とも伝えられる。
 大賢帝は、もはや公然と殺人を犯すようになった。

 大賢帝の暴走を諌められない無力な側近団と、恨みを持つ一部都民は、突如降臨したのなら、突如消滅してくれないかなあ、という思いを、心の底に押し込め決して漏らさぬ努力に、日々汲々とするのみであった。

 ある日、大賢帝は東京都路線図を睨み、こう言った。
「丸ノ内線をUターンさせず、二本の直線とせよ」
「……」
「北丸ノ内線と南丸ノ内線に分断するのだ。今まで何人の善良な利用者が、山手線の方が近いことも知らず、新宿池袋間の移動に、間違って丸ノ内線を使う愚行を繰り返したことか」
 大賢帝の目は変わらず怒りに燃えていたが、この言葉の後、一瞬遠い目をしたように見えた。
 為政者の目ではなく、被害者の目のように見えた。
 これには、証言が残っている。
 放浪の日のディオゲネスらしき人物が、池袋駅で丸ノ内線を降りた後、路線図を見て呆然とし、駅員にくってかかった、その肩は怒りに震えていた、というものである。
 
 ディオゲネスは流暢な日本語で絶叫したという。
「時間と空間は絶対に捻じ曲がらない。なのに! なぜ! なぜ山手線と丸ノ内線では、所要時間が違うのか?」
 自分はシレッと二十数世紀の時空を超えた大復活を遂げておいて、また、数々の物理法則を無視した奇跡を好き勝手に引き起こしておいて、何を言わんや、である。
 そして、私はここで重要な指摘をしたい。
 それは、大賢者ディオゲネスともあろう者が、丸ノ内線が新宿を出て東に向かい東京駅に到達し、Uターンしてまた池袋に至ることになった事情、需要を理解しなかったはずがない、という点である。
 たとえその時は、知らずにうっかり丸ノ内線に乗ってしまったのだとしても。
 したがって、時空云々というディオゲネスの発言は、ただの八つ当たりであり、いわゆる一つのイチャモンにすぎない、と私は断ずる。
 新宿駅で、まだ路線図に不案内のディオゲネスは、池袋行きと表示された丸ノ内線に乗ってしまった、というただそれだけのこと、そのことを恥じ、怒り、その感情を抑えきれず、理不尽な理屈を付けて、駅員に転嫁し爆発させたのだ。
 純然たるクレーマーとして。

 これは一例に過ぎないが、こういった幾つかの逸話こそが、私佐藤が、大賢帝ディオゲネスはもとより狂っていた、と考える根拠である。
 大賢帝は当初から、その叡智は疑いないものだったとはいえ、論理的思考よりも、思いつきと感情の奔流に身を任せ万事を成す狂人であったと疑う、極めて強い根拠である。
 今になってみれば、あのアルタ前での統治宣言すら、ただ単に、数秒前の思い付きと激情の産物であったのかもしれない。



   



 周知の通り、丸ノ内線は大賢帝の思うがままに作り変えられた。
 私は心ひそかに、大賢帝がついにあのことを、あの恐るべき最終計画を、断行する日が遠くないことを予期し、怯えていた。

 そして、その日は来た。
 大賢帝は急に思いついたかのように、気安くそれを口にした。
「いまだ、ここに悪がある」

 大賢帝ディオゲネスは、指で地図を指さなかった。東京都全図の中央辺り、山手線の米粒型の楕円上に掌を置いた。山手線内側全域が、すっぽり掌に収まっていた。
「今まで通りだ。退避命令を出すがよい」
 語気は極めて軽く、快活であるにもかかわらず、大賢帝の目は血走り、鼻息は非常に荒くなっていた。
「山手線を、正円にするのだ」
「……」
「それだけではない。すべての大通りを真っすぐ東西と南北に。その十字路の下に地下鉄駅を。大通りと山手線の交わるところに、山手線の各駅を」
「それじゃあまるで、大阪とか京都じゃねえかよ……」
 そう呟いた森吉雄という巨躯の側近は、即座に数億匹の小蠅となった。
 彼の犠牲により、一旦は、大賢帝の癇癪(かんしゃく)は阻止された、と一般には信じられている。
 だが、事実は違う。
 身を挺したこの森については、痛切の極みではあるが、事実としては全くの無駄死にであった。
 なぜなら、大賢帝は森を消した後、また何も無かったように、東京都地図に掌を置こうとしたからである。
 これを阻止したのは、不詳、この私である。
「大賢帝! 今一度ご再考を! 我々のいるこの〈新宿の目〉も、東京の一部にございます。我々も一緒に消えてしまいます!」
 大賢帝は、ハッと気づき、呵呵(かか)大笑とあいなった。
 そして、急に真顔になり、呟いた。
「では、新宿だけを残せばいいではないか。ここを起点に、新しい東京の地図を白紙から描き直すのだ……」
 万事休すであった。
 だが、一旦、東京の全体は命を長らえた。いや、死刑の日を先延ばしにされた。
 この押し問答で勢いを削がれた大賢帝は、気が変わった。
 その場で奇跡の力を振るうことをせず、ブツブツ言いながら横になり、寝てしまったのだ。
 以上が、ありのままに記す、その日の顛末である。

 しかしまた、いつ狂気が舞い降りるとも分からない。
 翌日にも、いや、一時間後にも。
 もはや戦々恐々どころではなくなった。あるのは、分厚い絶望だけであった。
 我々は眠る大賢帝、いや狂帝の傍らを去り、初めて側近団全体で秘密の会合をもった。

 我々側近団は、この日この時より決死隊となることを、誓い合った。
 犠牲を最小限にすべく、交代で一人を当番として残し、他の者は自宅待機することにした。
 誰の当番の時に決定的瞬間が来るか、それはまさに神のみぞ知る、であった。
 当番を外れた者は、大賢帝の善政を、もちろん狂気以外の部分を、継承存続させねばならない使命があった。
 木偶人形たちの後始末一つとっても大問題だった。だから我々側近団は、全滅してはならなかった。生き延びる使命があったのである。
 当番を外れた者は、都外に退避していたわけではない。新宿駅に近づかなかっただけであった。
 もちろん、作戦失敗の可能性は十二分にある。失敗すれば東京都東部は丸ごと、大賢帝の意図通りに消滅するだろう。
 だが我々側近団は、それに備え自分たちの家族だけを都外に退避させる、という卑怯な行動だけはとらなかった。いや、とれなかっただけかもしれない。

 私は、あの決定的瞬間、豊島区の自宅で、妻と一人娘と共に、テレビを見ていた。
 誘拐、脅迫、迫害の危険が絶えないので、全ての知人に対し、また妻にも娘にも、私が大賢帝の側近を務めていることは、秘密にしていた。
 家族は、統治宣言の後も、私が変わることなく病院の地下でカルテ整理をしていると信じていた。
 テレビは、有識者の討論会を映していた。
 次に大賢帝ディオゲネスが標的にするのはどこの何か、というテーマであった。
 出席者もテレビ局側も、大賢帝の鉄槌を恐れ、批判的な言辞は一切避けていた。しかし大賢帝の連続破壊行動が、目下都民の最重要関心事であったのは、間違いなかった。

 私の幼い娘は、無邪気に尋ねた。
「ねえお父さん、ダイケンテーってどんな人?」
 私の全身から、ブワリと冷や汗が噴き出た。
 私は素知らぬ顔をとり繕って、答えた。娘の頭を撫でながら。
「きっとね、綺麗好きな、整理整頓が好きな、そういう人なんじゃないかな」



   



 2014年10月28日。
 その日、側近団の当番は、吉田重治という元郵便局員であった。
 側近団が決死隊の誓いを立ててから、三日後のことであった。
 大賢帝は、以前なら必ず周囲に数人は控えていた側近団が、三日前より一人だけになったことを、気にもかけていなかった。これは予想できたことであった。
 もはや大賢帝の心はここに在らず、完全な狂気に侵され、ずっとうわの空でブツブツと独り言を呟き続けるのみであった、と私は報告を受けている。

 大賢帝はついに、膝の前に常に広げられている東京都全図に、再び掌を置こうとした。
 吉田は、誰の当番の日に「その時」が来ても良いように、皆と同じく訓練を積んでいた。
 吉田はその訓練通りに、大賢帝の手が振り下ろされるその瞬間、地図を剥ぎ取った。
 かねてより密かにそこに置かれていた二枚目は、新宿駅周辺拡大図であった。
 この吉田の自己犠牲的行動についての記述は、当然ながら私の想像と推測であって、目撃記録ではない。その瞬間を見た者は、もう誰も生きていないからである。
 しかし、吉田が訓練通りの行動を、完璧にやり遂げたことは間違いない。側近団の狙い通りの出来事の誘発に成功したのだから。

 すなわち。

 周知の通りである。ディオゲネスの左手は、東京都全図ではなく、新宿駅周辺地図に、降ろされた。
 再建されたばかりのま新しい新宿駅は、たちまち、その周囲1キロメートル四方の土地と共に、黒い蝶の竜巻となり、天に昇った。
 都庁も、新宿中央公園の半分も消失した。
 歌舞伎町も、西新宿八丁目のディオゲネス降臨の地も、完全に消失した。
 南口、東口も代々木駅や新宿御苑の一歩手前まで、消失した。
 百万人とも二百万人とも言われる最後の巻き添え被害者たちとともに。
 英雄、吉田重治とともに。
 そして、狂人ディオゲネスとともに。

 それから二年。奇跡の善政は、生き残った側近団を中心に、こっそり穏便に後始末をつけられたり、継承されたりしている。
 これには、周知のことではない事実も多く含まれるのであるが、問題の性質上、ここで詳細の全てを書くことはできない。

 私ごとではあるが、私佐藤栄一の娘由美は、昨年、知人の運転する車で、首都高の通称大曲の大カーブで交通事故に遭い、命を落とした。
 まだ六歳だった。
 プロボクシングの世界フライ級チャンピオン大場政夫と同じ事故現場であり、彼が現役王者のまま二十三歳で若い命を散らしたのが昭和48年。
 東京は、今も、もつれた焼きソバの麺さながらである。

 

(2013年 6月 kindle にて発表)