市民に職務質問を行う際の一般的注意事項

 

 

 その白い塊が俺の胃の中で溶け、血中に入り、脳に到達した時、何か微妙な、しかし非常に鮮烈な感覚が体全体を貫いた。その感覚は、水よりも粘度が低い液体のように、静かに、しかし圧倒的な力で全身に浸透した。 

 延髄の辺りがブルリと震えた。澄んだ音のように響き渡るシナモンにもココナツにも似た芳香、しかしそれは外界に漂うものではない。鼻腔の一番奥から直接湧き出したかのようだ。 

 皮膚と空気が和解し、両者の境界がわずかにぼやける。 

 信頼感、安堵感、しかし何に対してなのかよく分らない。何か新鮮な知覚、しかし何が変わったのかもよく分らない。浮遊しているかのような身体感覚、しかし同時に、変わらず座っている実感もある。きっと肉体とは違う何かが浮かび上がっているのだろう。 

 視界の彩度が増した。先ほどから変わらず照り続ける日光とは違う輝きが周囲に満ち、さらに後から後から降り注いでくる。 

 数秒の出来事だった。世界がバチンと裏返った感覚。この瞬間から魂の道行きは方向を変える。快楽は一秒ごとに姿を変え、俺を痺れさせてくれる……。 

 

 午後まだ日の高い公園。初夏のそよ風が木々の梢を吹き抜けて優しい音を奏でている。新緑、薫風、陽光。言うことなしだ。 

 

 と、そんな俺の至福の昼下がりの散歩を妨害する奴らが前方から迫ってくる。最初から不信感と軽蔑に濁る目を隠そうとしていない。

「はいちょっとー、止ってねー」

「何されてる方ですかー」

 二人組の警官だ。公園の中まで巡回とはご苦労なことだ。

「身分証持ってますかー」

「ポケットとか調べさせてもらいますよー」

 

 いわゆる職務質問だ。しかしちょっと待て、一体何なんだこれは。どうやら最初から犯罪者扱いのようだ。

 いきなり所持品検査が始まった。いくらドレッドヘアのモヒカンで派手な絞り染めのだらしない服を身にまとった若くもない髭面の男が平日の公園をぶらついていたにしても、酷い話ではないか。

 見れば一人は俺の財布の中まで検(あらた)めている。カード類を一枚一枚調べ、免許証とか無いのかよぉと勝手に苛立ち始めている。誰であれ初対面の人間に敬語も使えない奴は屑だ。これは俺の経験則から言って絶対に間違いない。

 もう一人の警官は俺のポケットを探る。紫のタイパンツの右のポケットに手を突っ込み、入っていた小銭を全部掴み出していちいち確認する。それが我が国の通貨以外の何に見えるのか。次いで左のポケットに手を突っ込み、煙草入れを見つけておっ、と声を上げる。布製のただの煙草入れがそんなに珍しいのか。

 

「カードいっぱいあるけど、名前書いてある物ねえなあ。不自然だよなあ」

 意図的に持ち歩かないようにしているのだから当然だ。財布を奪い返すと、その警官1号は極めて不機嫌そうな顔になっている。自分が一公僕であることを忘れ、何かしら特別な権力を持っていると勘違いしている嫌な目だ。だが俺はこいつにへつらう義務も義理も持ち合わせてはいない。

 さてこれで解放してくれるのかと思ったらこの警官1号、俺の顔をまじまじと覗き込んできた。よくよく見れば目がおかしい。変に思い詰めたような尊大な目。お前こそ覚醒剤(シャブ)でもやってるんじゃないのか。

 案の定、警官1号はとんでもないことを言い出した。

「お前……、平野だよな」

「違いますけど」

「俺だよ、山淵。中学の頃いっぱい遊んでやったろ」

「違いますけど」

「中学の頃いっぱい遊んでやったじゃん、お前雑巾とか食ってたじゃん、なあ平野」

「だから……」

 ここで警官2号が声を上げる。

「ああっ、何だ、この錠剤は!」

 煙草入れの中にまだ残っていたようだ。さっき全部飲んだと思っていたのだが。

「風邪薬ですよ」俺はそっけなく答える。

「いやいやいや、風邪薬を裸で持ち歩かないっしょ普通」

 やけに嬉しそうな警官2号。その時警官1号がハハッと鼻で笑いながら割り込んできた。

「なあ平野、お前風邪ひいてんの? なんでかなあ、なんでお前らってどいつもこいつも煙草入れに薬入れてんのよ平野」

「だから平野って人じゃないですよ俺は」

「はあ、お前いつからそんな口きけるようになったよ平野」

 1号は俺の胸ぐらを掴んだ。それと同時に俺の腰に膝蹴りを入れた。

「何だその目は? 薬中(ヤクチュウ)の分際でよ、ああ? 平野風情がよ」

「ちょっと山淵さん、ちゃんと現行犯逮捕してから、ね? ね?」

 2号がなだめるのも耳に入らず、1号は勝手にヒートアップし始めた。駄目だな、もうこいつは止まらないな、俺は深呼吸した。

 俺は警官1号をじっと見返し、目を逸らさず言った。

「中学時代はお山の大将で、さぞ楽しかったんだろうなお前。苛めっ子が昂じて今じゃ警官になったはいいが、いつまで経ってもウダツの上がらぬペーペーか?」

「何だと平野」

「お前、今はつまんなそうだな。俺はな、大人になっても毎日楽しいぞ、お前と違ってな」

「いい加減にしろよ平野」

「ストレスが溜まってるんだろうがなあ、でもな、一般市民に手を出すのは感心しないぞ。俺は何か間違ったこと言ってるか? なあおい、山淵とやら」

 警官1号山淵が、言葉にならぬ罵声とともに俺に回し蹴りを食らわせた。だが俺はびくともしない。大木に蹴り込んだかのような違和感と痛みに、山淵は酷く驚いている。

 

 不穏な雰囲気を感じて、警官2号が腰の無線機に手をやる。

俺はさっき取り返した手の中の十円玉を親指で弾く。鋭い弾丸となったそれは、無線機を正確に撃ち抜いた。

「平野ぉっ!」と裏返った声を上げる警官1号の右耳を、俺は無造作に摘んだ。

「これも縁だ。会ったこともないが、これは平野君の分」

 ビビッと右耳が、山淵の顔から分離する。逃がさないように前髪をがっしり掴む。

「ああっ、髪はやめろ」こいつは耳がとれたことに気づいてないのか。

「それから? お前、あと誰を苛めた? どうせ一人じゃないんだろ? 平野君と一緒にいた子がいただろう?」

「……吉田」

「これは吉田君の分」

 左耳をちぎり取る。

「そしてこれは、生きとし生ける、全ての苛められっ子諸君の分だ!」

 俺は中指を立て、警官の喉仏に突き立てる。指が中ほどまで釘のようにズブリと刺さる。

 山淵は首を押さえ、「カハー、カハー」と異常な呼吸音をまき散らしながらのたうち回る。

「貴様の気管に穴を開けた。呼吸困難はとにかく苦しいぞ、お前の無価値な人生を反省しろ」

 

 さて、と振り返ると、警官2号が腰を抜かしてガタガタ震えていた。

「おや、君はまだ逃げだしていなかったのかね」

「……お前、何者だ」

「俺か、俺はただの野良犬だよ。もっとも、俺の実家は暗黒拳法破岩雷鳴流の宗家。幼少の頃から父上より、想像を絶する荒行を施されてきた。今は訳あって実家を飛び出し、世界を放浪している身の上だがな」

 俺はしゃがんで、警官2号と目の高さを合わせてやる。

「だからな、分かっただろ、君に俺を取り押さえることは不可能だ。とっとと相棒を救急車に乗せなさい。それから応援を好きなだけ呼びなさい。その頃には当然、俺はここにはいないだろうがね」

 

「畜生! 負けるもんか!」

 涙目でへたりこんでいた警官2号は、おもむろに服を脱ぎ始めた。全裸になると制服と下着をきちんと畳んだ。そして仁王立ちになると、胸の真ん中に埋め込まれたスイッチを押した。

 みるみるうちに警官2号は巨大化し、数十メートルはあろうかという戦闘ロボット形態に変身した。俺はその姿を見上げて、ふふんと笑う。備品を破ってはいけないから全部脱いだのか、律義な男だ。1号よりは見どころがありそうだな。

 私の名は警視庁公務特殊活動用機動ロボット竹内マークⅡ。

 暴漢よ、今すぐ投降するか、暴徒鎮圧用レーザー熱線で炭になるか、選択の猶予を十秒与えよう。

 抵抗は無駄だ。お前は逃げられない。お前は私に勝てない。繰り返す。お前は私に勝てない。

「おいおい、いきなり殺害予告かよ」

 脅しではないぞ。今すぐ投降せよ。さもなくば。

 竹内マークⅡが巨大な左腕を持ち上げ、こちらに向けた。その腕から赤い光線が発射され、酸欠でピクピクしていた警官1号山淵が一瞬で真っ黒な炭になった。

 人間が燃えた臭いよりも、アスファルトが溶けた臭いの方が強烈に漂い、鼻を刺激した。

「いいのかよ、こんなことして」

 抵抗した犯罪者に逆襲され敗北するなど、警視庁の面汚しぃぃぃ……。

 竹内マークⅡの声が高らかに響く。

「仕方ねえな、相手してやるか」

 俺も服を全部脱ぎ、畳んでベンチに置いた。

 俺はいま一度毅然と竹内マークⅡを睨み、そして目を閉じ腹の底から叫んだ。

「風よ! 光よ! インドの聖なる神々よ!」

 俺の体もみるみる巨大化し、竹内マークⅡより頭一つ高くなった。

 

 竹内マークⅡはいきなり弱気になった。

 お、お前、ただの拳法家って言ってたじゃないか、ずるい!

「世界を放浪してたとも言ったぞ。みんな内緒にしてるが、インド帰りなら誰でもこれぐらい朝飯前なんだぜ。アートマンとブラフマンって知ってっか? って、まあいいか」

 うわあ、来るな!

 泣き声を上げながら竹内マークⅡは暴徒鎮圧用レーザー熱線を放った。

 俺は右の掌をかざして、片手でそれを遮った。

「温かくて、こそばゆいだけだぞ」

 こうなったら、暴徒鎮圧用広域拡散青酸ガス噴出!

「アーモンドの臭いがするっていうけど嘘だな。甘酸っぱい花の香りだ」

 俺はクンクンと鼻を鳴らし、これ見よがしに胸いっぱいガスを吸い込んだ。

「おいおい足元見てみろよ。どうすんだこれ。逃げ遅れた一般市民が何十人も倒れてるぞ。これ終わったらお前、始末書の山じゃないのか」

 くそぅ、暴徒鎮圧用ビーム警棒!

 竹内マークⅡは、ガンダムの胴体でも切断できそうな物騒な武器をとり出した。ピンク色に発光するその巨大な警棒は、俺を焼き切ろうとブインブインと不気味な唸りをあげている。

 覚悟!

 竹内マークⅡが警棒を振り上げる。だが俺は即座に竹内マークⅡの銀色の前腕を受け止め、しっかり掴む。

「遅い。蠅がとまるぞ」

 俺はそのまま腕を握り潰す。警棒はちぎれた腕ごと地面に落ちて、公園の木が盛大に燃え上がる。

「そろそろ終わりにするぞ」

 俺の右手の手刀が独特のフォームで宙を舞い、竹内マークⅡの首を跳ね飛ばす。

「暗黒拳法破岩雷鳴流奥義、無刀星流れ! 南無!」

 

 さて、と改めて俺は周囲を見回す。巨大化したこの身では、広い公園の隅々まで一度に見渡せる。初めて見る景色で面白いな、と思う。

ところが、公園の周りの通りを、パトカーや放水車や戦車で完全包囲されているのに気がついてしまった。このままここで元のサイズに戻ると具合が悪い。大捕物が始まってしまう。仕方ない。追跡を諦めてくれるまで少し歩こうか。

 俺はパトカーをまたいで公園を出ると、青梅街道を西に散歩することに決めた。

 俺は時速六十キロほどでズンズン歩いてゆく。高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪の陸橋。道行く人が俺を珍しげに見上げている。若い女性の二人組が、一糸まとわぬ俺の股間を見て瞳を艶っぽく潤ませている。俺がウィンクすると、顔を赤らめ慌てて目を逸らした。

 

 ……という大変に気分の良い夢を見ているところで、肩を揺り動かされ、無理矢理起こされた。あの錠剤を飲んだ後、しばらくはハッピー満開でうろうろしていたが、いつの間にか力尽き、公園のベンチで眠りこけてしまったようだ。

 顔を上げると、警官が二人、俺の顔を覗き込んでいる。俺は真っ青になる。

「ちょっといいかなー、職務質問させてもらえるぅ? あと持ち物検査もお願いできるかなー」

 俺が返事をするより早く、二人は俺の体を、懐を、馴れ馴れしく探り始めた。

 

(2011年 10月)