幻野としての杉並

― 終末論的週末、局所的酷暑、あるいはバッカス的馬鹿話 ― その1




 8月、第2日曜日。
 東京都杉並区南杉並2丁目の低層マンション密集地帯。

 杉崎は、昼近くになっておどろおどろしい暑さで目を覚ました。
 全裸で自室のベッドに横たわっていた。まだ月曜でないことは、かろうじて思い出せた。
 昨晩、すなわち土曜の深夜に泥酔して帰り着いた時から、一晩中クーラーは18度設定で回しっぱなしだった。
 それでも陽が高くなるにつれ、杉崎の部屋は、じっとりと蒸し始めていた。

 ベッドから這い出そうとした杉崎は、眼鏡が行方不明であることに気づいた。
 どこにも置いた記憶がない。
 おそらくは、眼鏡をかけたまま失神するような眠りに落ち、その後、無意識に外したのだ。
 強度の近視の裸眼頼みの眼鏡探索には小一時間を要した。結局、眼鏡はベッドの下で発見された。杉崎はいまだ全裸で全身に酒臭い汗を浮べている。
 地獄の光景である。長い日曜日の始まりであった。

 眼鏡を着用すると、ようやく人心地がつく。それにしても、暑い。異常に暑い。
 最高に暑いと思えた前日より、さらにその倍ほども暑い。

 そういえば前日の土曜日からすでに杉並一帯は暑かったが、前々日の金曜日は珍しく、それほどでもなかった気がする。
 杉崎は金曜の夜から酔い続けている己(おのれ)の記憶を辿った……。



  * * *



1 金曜日



1-1 雀の顔を観察する


 金曜の朝、コロスケはまだいない。
 杉並区は珍しく暑くなかった。1週間以上停滞していた熱波がようやく小休止したようだ。
 変に光量の少ない朝だった。
 見上げれば青空混じりの薄曇り。うすら寒いほどだが妙に湿度は高い。
 連日の酷暑日に苦しめられてきた杉崎は、なぜか、かえって暗い気持ちにさせられた。

 出勤時、8時10分の遅刻ギリギリ電車を目指す駅までの道すがら。
 杉崎は奇妙なことに気づいた。
 ……今日は、やけに雀が、歩いている。

 なんとなく元気がない。パッパと動かない。それは一見して分かる。
 気が向けば面倒臭そうにバタバタと羽ばたき、普段通りの雀の姿で頭上を飛んでいく。
 なんとなく、怠けているような、図々しい厚かましい感じ。雀もこの暑さで頭の回路に異常をきたしたのか。
 その鈍重な動きは、集団でいるのを盾にとって堂々と地面を歩き廻る公園の鳩を思わせる。
 しかし雀の数は、鳩ほどには多くはない。群れてもいない。数10メートルおきに、歩道の脇などに1羽だけ単独で目につく、その程度だ。
 鳩というよりは、死にかけて地面に落ちた蝉のようだ。杉崎は思った。

 杉崎はしゃがみ込んで、雀をマジマジと見た。
 生で雀の顔をじっくり観察する機会など、過去にもあまりなかっただろう。
 雀というものは、こんな無愛想な作り物のような、気持ち悪い顔をしているものだっけ。

 杉崎のその違和感は、駅に着くなり忘れ去られた。
 野鳥などのことより、満員電車に自分の体を突っ込むことの方が大事だった。

 つまらない、幾分屈辱的ないつもの仕事を終え、杉崎は最寄の南杉並駅からマンションへの帰路にあった。
 夏至をひと月あまり過ぎただけのこの時節、午後6時など、昼下がりと何ら変わりはない。
 あと1時間は明るく暑い時間帯が続く。

 そういえば、じんわりと暑い。朝は久しぶりに気温が低かったのに、夕方帰ってきてみれば、徐々に熱気が戻ってきている。

 そんな南杉並2丁目の路上には、朝よりも若干、飛ばない雀が増えていた。無防備な小動物が道を塞ぐ光景は、なんとも心落ち着かない。

 公園の角で、前から背の低いおばさんが歩いてきた。近隣住民で、この時間いつも犬の散歩をしているのだ。
 窮屈そうな服を着せられた、白く脚の短い犬は、ジュンチャンというらしい。吠え癖のある、躾(しつけ)の悪いムカつく犬だ。
 杉崎はおばさんと知人ではなく話をしたこともないが、犬の名前は知っている。
 盛んに名前を呼ばれているからだ。この犬が、他人や他人が散歩させている犬に吠えるたび、おばさんは「コラ、ジュンチャン、ダメデショ!」と笑いながら叱る。

 杉崎の前に現われた今日のジュンチャンは、いつもと少し様子が違っていた。
 吠えない。なぜか? それは、口に雀をくわえていたからであった。
 ジュンチャンは誇らしげな目をしていた。
 おばさんは、おそらくそのことに気づいていない。

 杉崎は目を逸らして、足早にすれ違った。

 今度は小学生の集団だ。夏休みなのだろう。ずいぶん遅くまで外で遊んでいる。
 そのうちの何人かは、手に捕獲した雀を握りしめている。
 雀は死んでいるのかもしれない。生きているか死んでいるか杉﨑の目からは判断がつかない。
 雀を持つ子は、得意げにその掌の中の小鳥を誇示している。

 杉崎は再び、顔を曇らせながらすれ違った。
 駅からさして遠くない自宅マンションの敷地に入る。
 地面がアスファルトからコンクリートに変わった瞬間、杉崎の身体は、バナナを踏んだコメディアンのように大袈裟に宙を舞った。
 何か滑るモノを踏んだのだ。
 杉崎は見事に空中で仰向けになり、尾てい骨から着地した。
 頭の芯まで突き抜けるような新鮮な痛みが、杉崎を襲う。
 踏んだのはバナナではなかった。杉崎の靴の裏には、大半すり潰された雀が貼りついていた。

 それに気づいても、杉崎はショックを受けることはなかった。
 尻の鋭角な痛みで、それどころではなかったのだ。
 しばらく尻餅をついたまま動けなかった。
 圧倒的な痛みの第一波が去って、ようやく杉崎はノロノロと体を起こした。

 尻の下にも、杉崎の体重によって押し潰された、小さな嘴(くちばし)から血を滴らせる、平板になった雀を発見した。
 その時になって杉崎はようやく、さめざめと泣き出したいぐらい厭な気分に襲われた。




1-2 黒い犬が走り去る


 雀を2羽ほぼ同時に潰すという神業を披露し、自らの心までも潰れかけた杉崎であった。
 なんとか気をとり直し、部屋で荷物をまとめると、金曜夜の習慣としている道場に向かうため、再び家を出た。
 通勤の電車と同じ路線で、職場とは逆方向に向かう。
 杉崎は、荻窪駅にほど近い雑居ビル3階にあるブラジリアン柔術のジムに、5年前から通っている。

 午後10時にジムを出て、他の練習生たちと安くてまずい餃子定食でビール。店を出てもまだ賑わいのある荻窪駅前の裏路地。
 杉崎は、路上で煙草を吸いながら、練習生の一人、山中と名残惜しそうに談笑している。
 少し眠そうな山中が、美人妻と昨年生まれた愛児の待つ家にそろそろ帰りたそうなのを、杉崎はうすうす感じ取っている。
 
 と、その時。杉崎の視線の隅を、黒い大きなモノが横ぎった。
 杉崎の視界の右方向に黒いモノが現われ、右側の視界の外に向い、ガサガサッと動物が駆け出す時の動きで、素早く走り去った。

 杉崎は、黒い犬だと思った。そうとしか見えなかった。
 黒猫ではない。猫よりもう少し大きく、もっと汚らしい感じの黒い毛がフサフサしていた。
 杉崎は、目の前に山中がいるにもかかわらず、首を回し振り向いて、それを目で追いさえした。
 しかし、それは忽然と消えた。

 奇妙だった。
 何か強烈に嫌な予感、懸念を感じさせる、奇妙さだった。
「あー、もういい時間だから、ぼちぼち駅に向かおうや」
 杉崎は自分が話を引き延ばしていたくせに、先輩ぶって場を仕切った。
 週末最初の酒で否応なく高揚するはずだった杉崎の気分は、数時間前の雀の一件がまだ尾を引いていたのに加え、黒い犬の影に完全にトドメをさされた。
 杉崎は、黒い犬の影を、何かの見間違いか勘違いだと忘れ去ってしまいたかった。
 だが、どうしてもできなかった。奇妙な黒い針が心に刺さったままになった。
 
 忘れられるわけがなかった。その黒い犬は、杉崎の顔と同じ高さの空中を、走り去っていったのだった。




1-3 蝉の腹の白さに見とれる


 深夜だというのにじんわりと蒸す、よどんだ空気。杉崎はじっとり汗にまみれながら、再び自分のマンションのドアの前に立っている。
 足元を、睨み続けている。
 今度は雀ではない。
 そこには、この酷暑の杉並で栄華を極める蝉が1匹、腹を上にひっくり返っていた。

 杉崎は蝉の腹の白さに、禍々しい恐怖を見た。
 元来こういう色をした種なのか。それとも真っ白なカビと共生関係にあり、成虫はそれを腹一面に飼っているのか。いずれにせよ、強いくっきりとした純白色だ。
 杉崎はマンション向かいの小学校校庭の、ライン引き用の石灰を思い出す。
 そして、杉崎は思う。なぜこいつらは、常に逆さになって落ちているのだろう。

 蝉が羽を上にしている時は、ただ休んでいるだけだ。足が動いている。次の瞬間にも飛び出そうとしている。
 対照的に、死にかけると、こいつらは必ず腹を上にひっくり返る。その白い腹を見せびらかすように。
 誰かを、死の国への道連れにと誘っているのかもしれない。
 誰を?
 しげしげと蝉の白い腹を見下ろしている自分に気づく。
 ああ、俺か。

 しかしこいつらは、完全な死骸であるとは限らない。だから杉崎は、先ほどから身構えているのだ。

 意を決して、杉崎はサンダルの爪先でひっくり返った蝉をつついた。
 杉崎は知っている。この夏異常発生し鳴き疲れ羽ばたき疲れてやがて屋外のあらゆるところに動かず横たわるこいつらの、一部はまだ生きている。
 死にきれない奴らは、爪先で払うように地面を滑らせてやると、息を吹き返し、バババ……と派手な羽音をたてて全力で飛ぼうとする。

 むべなるかな。はたして、杉崎の爪先でバババ! と羽音が鳴り響く。
 充分過ぎるほど警戒していたはずの杉崎は、それでも羽音にドキッとして身を固くする。少しだけ涙目になっている。

 しかも今夜の蝉は厄介なことに、ほとんど息絶える間際だ。
 もしまだ余力があるのなら、死んだようにひっくり返っていた蝉でも、一度足で払えば次の瞬間には異常な元気さで夜空高く飛び立ってゆくのだ。
 だが今夜の半死にの蝉は、サンダルに蹴られても、ほんの一瞬だけ羽ばたき、杉崎の膝の高さほど浮かび上がっては、少し離れたところにポトリと落ちる。そしてまた動かなくなる。
 といって完全に死にきる気配も無い。杉崎が爪先で触る度に、何度でも一瞬だけ元気に息を吹き返すのだった。

 杉崎はいつまでも1匹の蝉と睨み合っている。
 何度も足で払っても遠くへ飛び立ってくれず、それゆえ玄関のドアを開けられないのだ。
 遠くに排除しない限り、杉崎がドアをくぐる僅かの隙に、万が一こいつが室内に侵入しないとも限らない。
 そのイメージが、杉崎には恐ろしくて仕方がない。
 部屋の中の蝉。ゴキブリの数倍の質量と数倍の移動速度を持ち、羽音だけでも物騒なのに、轟音で鳴くやもしれぬ。
 触れれば羽ばたくので、絶対に捕えられず、絶対に殺すこともできない。
 それがもしも杉崎の身体に向かって飛んできたら……。想像するだけで戦慄と眩暈に襲われる。

 こいつがドアの前にいる限り、杉崎はドアを開けられない。永久に部屋に入れない。

 意を決して杉崎は勝負に出た。
 先ほどから繰り返している爪先でのおっかなびっくりな足払いを、渾身のサイドキックに切り替える決意をした。
 杉崎のサンダルが触れた刹那、杉崎が脚を振り抜くより先に、蝉はまたしても真上に飛び立った。
 少し浮かんでポトリと落ちるのではなく、今度は初めて杉崎の身長より高く飛び、彼の頭部を飛び越すようにして背後の闇に消えた。
 蝉が顔に当たる! そう察した瞬間、杉崎の口からひやああぁぁ、と情けない悲鳴が漏れそうになったが、なんとかこらえた。
 ひとえに、隣人の背の高いお姉さんに聞きとがめられ、狂人の烙印を押されたくないからであった。
 ともかく、すんでのところで蝉の攻撃をかわせたのは、柔術の修業の賜物である。杉崎はそう自負した。蝉の方が身をかわしたのかもしれなかったが。

 杉崎はようやくホッと大きな息をつくと、玄関の鍵を開け、扉を開けようとした。

 ちょっと待て。杉崎の心の声が聞こえた。さっきの蝉は、結局、どこへいった?
 そんなに遠くに飛べるほど、元気な蝉じゃなかっただろう?

 杉崎は振り返った。マンションの通路部分のどこにも蝉は落ちていなかった。

 ……もしかして、俺の背中に、とまっていないか?

 両手で背中を探るのも恐ろしく、杉崎はその場で着ていた黒いTシャツを乱暴に脱いだ。
 隣人の背の高いお姉さんに見とがめられていたら、おそらくは狂人の烙印を押されていただろう。   

 Tシャツに蝉はとまっておらず、杉崎は上半身裸のまま、急いで部屋に入り、冷水シャワーを浴びて、ようやく心を落ち着かせた。
 その後明け方まで、いくら酒を飲んでも寝つくことができなかった。

 金曜深夜というよりは土曜の早朝の浅い眠りの中、杉崎は蝉の夢を見た。
 夢の中で蝉は、杉崎の部屋の中を飛んでいた。
 杉崎は、ただ怯えて、それを見ていた。
 天井にとまった蝉は、杉崎を嘲(あざけ)るように大音量で鳴き始めると、次の瞬間にポンと爆(は)ぜた。
 蝉の破片と体液が部屋中に飛び散り、何とも言えない腐った土の臭いが部屋を満たした。



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