幻野としての杉並

― 終末論的週末、局所的酷暑、あるいはバッカス的馬鹿話 ― その3





3 日曜日




3-1 体液の循環こそが人体の活動の要(かなめ)である


 日曜。午前11時25分。
 
 冷蔵庫を開ける。見事に何も無い。大半を使い切ったトマトケチャップのチューブが転がるのみである。

 ……さて、と。どうしたもんかな……。
 するとコロスケがわめいた。
「冷たい物を買いに、コンビニに行くナリ!」
 杉崎は重い腰を上げ、マンションの鉄の扉の前に立つ。ドアノブが温かい。不穏である。なんとなく慎重にドアを押す。さすがに服は着ている。

 外気は、むわっ、と一瞬で、杉崎にまとわりついた。
 蒸し器の蓋をとった時のような、むわっ、が、壁一枚玄関のドア一枚を隔てて、果てしなく杉並区全域を覆い尽くしていた。
「ヨユーで40度はあるナリ……」
 コロスケは絶望的にそう言い残し、どこかに消えた。
 杉崎は独り、財布を片手に、熱風の中を歩き始めた。

 家に籠っていればいいのに、近隣住人どもがうろついている。普段通りの幸せな日曜の行動パターンを墨守せねば、気が狂ってしまうらしい。
 杉崎は軽い侮蔑の色を浮かべながら、道行く人を見る。そうするうちにも汗が噴き出る。
 言うまでもなく、杉崎自身もその愚かなる民の一人であった。

 顔を真っ赤にし汗をダラダラ垂れ流しながら、幼児の手を引いている母親がいる。
 歳若い母親の白い肌は汗に濡れ、極めて薄手の真っ白い布地が張りつき、なかなかエロティックである。
 だが注目すべきはそこではない。大変なことになっている。母と手をつないだよちよち歩きの幼児が、半分ほど溶けている。
 元気にはしゃぎながら、瑞々しくキラキラと溶け続けている。まるでフライパンで熱した牛脂のようだ。

 そういえば道端に、落としてしまったソフトクリームみたいな物体がいくつか見受けられる。一つ一つがソフトクリームの何十倍もの体積である。
 すでに溶け落ちてしまった別の子供だろう。
 オレンジ色の派手なキャップが傍らに転がっている。周囲にはもうもうと湯気が立っている。

 杉崎はズンズン歩く。のんびりしていては命にかかわる。コンビニまで徒歩2分。未だ道半ば。1分間で5リットルは汗をかいたに違いない。

 前に目をやれば、今度は道の真ん中に、動かぬ枯れ木のようなものが立っている。
 老人だ。
 性別も分からぬ、干からび果てた老人だ。いや、元老人だ。老人のなれの果てだ。
 体液の循環こそが人体の活動の要である。子供たちと違って水分に乏しい老人の身体は、外出するや否や、瞬く間にドライヤーのような熱波に干からび、やがて次の一歩を踏み出すことすら不可能となり、そのまま乾燥して絶命したのだ。
 熱風がなおも吹きつけるたび、<枯れ木>から皮膚が乾いた粉となって剥れ、宙に舞う。<枯れ木>の毛髪が風に舞う。腕が、首が、乾いた音を立てて崩れ落ちる。

 ……完璧なる風葬だな。
 杉崎はこの光景に感銘を受ける。
 ……長い長い人生の結末において、ついにその答えは風に吹かれゆくのだ。杉並には、ボブ・ディランがよく似合う……

 風向きが変わり、強い熱風が杉崎の正面から吹きつけてきた。
 杉崎はその風に混じり舞う<枯れ木>の粉にたじろいだ。
 吸い込んだりしたらひどく気持ち悪くなりそうなので、息を止めて足早に歩み去った。




3-2 町はパリパリに乾き


 コンビニの帰り道、白い棒が突風に乗って、アスファルトの上を低く滑っていった。
 パリパリに乾いたタオルだった。
 柔軟剤も使ってもらえずにベランダに干され、あるいは野外で水道水に浸した後に放置され、この熱風に飛ばされてきたのだろうか。
 車に踏み潰されるまで、留まることも空高く舞うことも許されず、永遠に杉並区の黒いアスファルト上をアメンボのように這い回り続けるのだろう。

 バシッと大きな音が聞こえた。
 遊歩道の脇に木製のベンチがある。それが、乾燥によって真っ二つに裂けたのだ。
 気にしてみれば、町全体、あちこちから、ググッ、ミシッ、といった不穏な音がたびたび聞こえる。
 地震で大きく揺れ出す直前に、一瞬ギシッっと家屋が軋む、あのような振動と音の中間のような、厭な感覚。
 見れば、土の校庭がヒビ割れている。桜の老木が縦に真っ二つに裂けている。
 小学校の古いコンクリートの壁も、割れたガラスのようなありさまだ。ボロボロ崩れ落ち始めている。

 日差しと熱風によって、町全体が、フライパンの煎り豆のように、縮み始めている。

 それでも、まだ少数ながら外を歩いている人々がいる。コンビニ帰りの杉崎も同様だ。
「イタイ! イタイ!」
 女性の悲鳴が聞こえる。
 熱風のその熱さは、まともに浴びればたしかに「暑い」というより「痛い」ぐらいなのだが、その感覚とも違う、軽い、鋭い痛覚がそれに混じる。
 乾き切った風に混じって飛んで来る飛来物がとにかく多いのだ。
 迂闊に目を大きく開いていると失明してしまうかもしれない。
 多くは荒い砂粒程度の大きさの、おそらくは無機物だが、髪の毛の塊やカラスの羽のような、比較的大きな有機物も平気で宙を舞っている。
 現在進行形で、町のあちこちで動物や老人が即身仏と化し、風葬の身の上となりつつある。

 杉崎はじきに、イタイイタイの声の原因はこれか、と思い当った。
 本能的に直射日光を避けて木陰を歩きたくなるが、街路樹の近辺はひどく危険なのだ。
 カリカリに乾いた木の葉が枝を離れ、ガラス片か、紙で作った手裏剣のように、けっこうな速度で風に乗って飛んで来るのだ。
 秋の枯葉のように茶色くはない。緑色のまま、水分を奪われペラペラのカチカチに固まっている。
 これをまともに喰らったら、大袈裟でなく怪我をするだろう。

 杉崎は足を速めようとした。その途端、顔面に鋭利な痛みを感じ、ウッとうめいて、口を押えうずくまった。
 唇から大粒の血が垂れ、あっという間に乾く。
 何か飛来物が当たったのだと思ったが、そうではなかった。
 杉崎も煎り豆の一粒に他ならなかった。
 杉崎の下唇の真ん中が、乾燥に耐えきれず大きく裂けたのが、出血の原因であった。

 アスファルトの溶けた臭いが、もはや耐え難い。
 それに混じって、肉を焼いた時のなんだか良い匂いもそこかしこから漂う。
 自動車のボンネットの上、建物のアルミサッシの上、黒い点が目立つ。
 風に舞った老人や小動物の即身仏の破片が付着し、それが地獄のような日差しを浴びて焦げているのだ。

 杉崎の脳裏を、強い確信を伴う、一つの近未来予想図がよぎった。

 そのうち、車やアスファルトの上の肉片や木の葉は、あちこちで自然発火を始めるだろう。
 火がついたまま、またこの強烈な熱風に飛ばされて飛び散るだろう。

 ああ、こりゃだめだ。どこに逃げればいいんだろう。
 杉崎の茹で上がった脳味噌は何も有効な答えをはじき出してはくれなかった。

 じきに、杉並区は大火に包まれる。同時発生的に、町のあちこちから火の手が上がる。
 地下鉄の駅まで引き返して、どこまでも逃げるしかないだろう。
 だが駅までこの異常炎天下を歩きなおせば、今度こそ命がもつ自信が全く無かった。
 すぐそこに見えている俺の部屋に引っこんで、水風呂に飛び込んで、悪夢が去るのを静かに待とう。
 そんな絶望的な結論だけが、半死にの杉崎の足を急がせるのだった。




3-3 最終章 ゾーン :鳥に喰われた虫は


 杉崎はたかぶっていた。
 珍しく、焦燥感に駆られていた。
 先ほどコンビニで買った激安ワインが脳に触っただけかもしれない。

「逃げ出したい。逃げ出すんだ!」
「逃げるんだ、この狂った領域から。この邪悪で出鱈目な幻想の帝国から!」

 杉崎は意を決して丸ノ内線南杉並駅に向かった。
 また何リットルも汗をかいた。
 地下鉄で東に向かい、四谷で降りた。
 ここは新宿区東部地域、杉並と同じ空気がまだまだ薄まってはいない。
 杉崎はオレンジではなく黄色い各停電車に乗って秋葉原を目指す。
 ビラ配りのメイドの太ももを見に行くのが目的ではない。
 ここも荻窪や新宿の駅周辺の繁華街と大差はない。ゾーンの内だ。

 杉崎は秋葉原に滞在することなく、そこからさらに、北を目指した。
 北に一駅進むにつれ、邪悪な空気は晴れてゆくのだ、と杉崎は期待していた。
 それは楽観にすぎなかった。
 長い速い電車は千住を越え、足立区の奥深くに斬り込んでゆく。
 巨大な鯨の体内に突き刺さってゆく銛(もり)に乗っているように思えた。
 閉塞感は、薄まるどころではなかった。
 足立区竹ノ塚で、杉崎は来た道を引き返した。

 帰りの電車、長椅子の隣に座った女子高生の口から、コロスケの言葉がこぼれ出た。

『鳥に喰われた虫は、鳥を見ることができないナリよ』
『……』
『鳥の中からでは、鳥を見極めることなど、できないナリ』

 杉崎は穏やかな目で女子高生を見つめた。虫を見るように睨み返された。

『つまり、だ』
 杉崎は心の中でコロスケに応じた。実際に音声を発話しないだけの分別は、まだ残っていた。見ず知らずとはいえ車内の人々に狂人扱いされるのはさすがに抵抗がある。
『こう言いたいんだな。鳥の口から外に飛び出さなきゃ、鳥を見ることはできない。見えるのはせいぜい胃袋の壁ばかりだと』

 そうだ。だから俺は今日こうして、ゾーンの外に出ようとした。
 ゾーンから抜け出したという納得ができなければ、どこまでがゾーンなのかも分からない。
 ゾーンの外に出てみなければ、ゾーンとは何か、理解することもできない。
 だから俺は、ゾーンの外に出ようとした。
 そして失敗した。

 コロスケは鼻で笑った。女子高生が実際に同じ行為をしたのかもしれなかった。

『食べられた虫が、二度と脱出できるわけがないナリ』

 杉崎の顔が恥辱にさっと紅潮した。爆発しそうだった。
 コロスケに、つまり隣の女子高生に殴りかかろうとする衝動は、なんとか抑えた。
 代わりに杉崎は乱暴に席を立った。女子高生がビクッと怯えるのが分かった。

 杉崎は車両の一番端まで移動し、立ったまま車両の角の壁にもたれかかった。
「なあ、コロスケ」
 遠くに見えるさきほどの女子高生は、スマートフォンを取り出した。杉崎の頭と直接ラインで対話を始めた。

「なあコロスケ、もうインチキでもカンニングでもいいや。降参するから答えを教えてくれ」
「何の答えナリか?」
「ゾーンの範囲はどこまでだ? ゾーンって、一体何なんだ?」
「杉崎のいるところはどこでもそうナリよ」
「なんでそうなるんだ?」
「だって、ゾーンとはそもそも……」
 
 そろそろ杉崎は、自分の心の声が、実際に口から漏れ出しているかどうか気にする余裕もなくなっていた。

「うるせえ! 黙れよ!」

 その怒声は、自分の口から吐き出されたものか、近くに立ついかつい労務者の声か、もはや分からない。

 そうして、杉崎は暑い暑い太陽がようやく西に没した頃、南杉並駅に帰り着いた。
 しょんぼりしながら、また部屋で酒をあおり、ゾーンには終わりの影すら見いだせなかったが、とにもかくにも杉崎の週末は終わった。

 

(2016年 8月)