微笑み美人

 

 

 これは私の姉から聞いた話です。 

 

 私の姉はよく、Aさんという職場の先輩の話をしていました。ええ、女性の方です。姉の言葉を借りると、「完璧すぎて面白い」人だったそうです。 

 Aさんは二十代半ば、顔もスタイルもすらっとかっこいい上に女性としての魅力にあふれた人で、それでいて派手じゃない、いかにもきちんとした完璧な容姿の持ち主、とまあこんな風に姉は力説していました。仕事もでき、人間関係にも気を遣えて、なのにリーダーシップを発揮するよりは一歩引いて仲間を立てるタイプ、そして周囲をいい気分にさせる優しい雰囲気の微笑み美人、いつも素敵な微笑みを絶やさないのだそうです。以上は、姉があれを目撃するずっと以前から、折に触れ私に語ってくれていたAさんの様子です。 

 

 奇妙な話というのは、ええもちろん、このAさんのことです。 

 Aさんが数日無断で欠勤したのが事の始まりでした。職場は迷惑する、携帯も通じない、第一今までそんなことは一度もなかったしそんな無責任な人だとは誰も思っていない。そういうわけで、何か良くないことがあったのかもしれないという声も上がって、会社から誰か代表してAさんの家に行ってみようということになりました。そこで、私の姉が真っ先に立候補したそうです。親友だとまで言ったとか。そのくせ実は住所も知らないのでこっそり人事課の知り合いに夕食を奢ると約束して買収までしたといいます。

 姉は、実はAさんに恋愛感情があったようなんですね。姉は学生のころからそうでした。男っ気は無いくせに女性の先輩に情熱的な恋をしたりデートをしたりを繰り返していました。そんな姉ですから、本心から心配だったのでしょう。

 かなり都心から離れた駅にあるAさんのマンションに、その日の夕暮れ頃には向かっていたといいます。Aさんの部屋は一階ですが、高い塀で目隠しされていました。若い女性の住む部屋ですから当然ですよね。姉が塀によじ登って上から覗くという大胆な行動力を発揮したにもかかわらず、大きなベランダガラスはカーテンで閉ざされていて、やはり中は見えなかったそうです。玄関に戻り、またインターフォンを鳴らし続けたみたいですが、いつまでたっても返事が無いので、不在かどうかだけでも確認するため、やむなく姉は管理人さんに事情を話してマスターキーで玄関を開けてもらったそうです。

 想像力豊かな姉は、Aさんの変死体でも発見してしまうのではないかとドキドキしたそうですが、室内にAさんの姿は無かったそうです。その部屋は完全に片付いていて、家具が極端に少なかった、と。スタイリッシュ過ぎて現実味が無いほどだったそうです。姉の言葉を羅列すると、家具などがホテルのよう。あるいは病院の診察室のような印象。生活感が無い。さすがAさんの部屋だと納得させられる面白いセンスでかなり個性的。普通のインテリアでないことは一目で分かるが何かそれ以上の違和感がある……。

 管理人さんの手前、長居するわけにもいかず、姉は事務的な書置きだけ残して撤退するしかなかった。帰り道、間違い探しの答えが分からないような、腑に落ちない気分をずっと感じていたと言ってましたね。

 

 ところが、Aさんはその翌日か翌々日あたりには出社してきたのだそうです。上司や周囲には謝って回らざるをえなかったようですが、結局誰も詳しい事情は聞き出せずじまい。ただ訪問し書置きを残した姉だけは特別だったようで、騒ぎも収まりかけたころ、二人きりになったタイミングで声をかけられたそうです。

「絶対内緒にしてね。あの時私実は、ずっと何日も家のすぐ近くのホテルに避難してたの」

 Aさんはその謎めいた言葉を口にした時も、かわらぬ完璧な微笑みで、何らおかしな様子はなかったそうです。

 もっとも姉が聞いた事情というのも、ほんのそれだけだったそうで、きっと好奇心と恋心とがないまぜになった気持ちだったんでしょう。私にその話を語った時も、これ以上問い質したら嫌われるような気がして、どうしたらいいか分かんない、なんて言っていました。

 

 姉に歯止めがきかなくなったのは、そのもう少し後です。ある時姉は急に気づいたんだそうです。Aさんの部屋にはベッドと椅子が無かった、と。数分見ただけの記憶ですから間違っているかもしれず、本当かどうか確かめたくて頭がおかしくなりそうだった、これは姉の言葉です。そうは言いますが本当は、この事件をきっかけにAさんと親密になれるかもという期待が裏切られたのが大きかったんじゃないかと私は思っています。とにかく、姉はその日のうちに、再びAさんの家に向かいました。

 勝手に訪問した負い目がある姉はとんでもない行動に出ました。身内の恥を晒すのはとても辛いんですが、姉から聞いた限りを全部、包み隠さずお話ししますね。

 姉はその二回目の訪問の時、帰宅するAさんの後を気づかれないようにつけて、彼女が部屋に入るまでを見届けたんだそうです。ところが玄関で訪問を告げる勇気が出なくて、なんと日が完全に暮れるまで待って裏手に回り、通行人が途絶えた時、塀を乗り越えたというんです。

 姉は塀と建物の間の狭い空間に身を隠し、しゃがんだか四つん這いになったかした体勢で、それこそ泥棒のように、カーテンの一番端の僅かな隙間から中を窺ったのだそうです。

 

 Aさんは、いました。部屋の隅に立っていました。

 きっと姉が立ったまま覗いていたらすぐ見つかったでしょうが、その時姉は小さくなって、ほとんど部屋の床と同じ高さからAさんを見上げていたので、気づかれなかったんでしょう。

 Aさんは、部屋履きにしていたのか、靴底の厚い、ブーツというより登山靴みたいなごついのを履いていたといいます。彼女は手を軽く腰の前に組んで、じっとただ立ち尽くしていたそうです。おそらくは何時間も、身動きもせずに立っていたんだと思います。姉は確かに、何時間も、と言っていました。ひょっとしたら、立ったまま寝ているのかな、とも疑ったみたいです。それもじゅうぶん変な話だけど、それだとまだ少しは可愛げがあるじゃないですか。

 でもそうじゃなかったんです。暗いからそんなによく見えるはずもないとも思うんですが、姉は確かに見たんだと言っていました。立ったままのAさんは、ごくたまに、横目でチラチラと盗み見でもするように、自分の脚元の何もないフローリングの床に目をやるんだそうです。そしてそのたびに何か嫌なものを見てしまったかのようにすぐ目を逸らし顔を曇らせたんだそうです。

 でもそれ以外の時間は、マネキンのようにつっ立ったままで。ええ、その通りです。少し首を傾げるようにしたその顔にはずっと、いつもの感じの良い微笑みが、凍りついたように貼りついていたんだそうです。

 

 変な話でしょう? 姉にもっと詳しく話を聞いておけばよかったとずっと悔やんでいます。姉は私にその話をした後すぐ、原因不明の感染症とかで、高熱と全身の激痛にそれはそれは苦しみながら死んでしまいました。ええ、ご存じのとおりです。

 Aさん、姉のお葬式に参列して下さいました。お話はできなかったんですが、姉の話の通りの本当に素敵な方でした。場違いではない程度の、微笑みに似た柔和な表情を絶やすことなく、Aさんは姉のために泣いて下さいました。

 

(2012年 1月)