悩み事


 俺の悩みを聞いて欲しい。

 俺の目の前では、今日も今日とて巨大な工作機械がシュインガシャンキュインキュインガシャンと派手な騒音をまき散らしながらフル回転している。
 俺の仕事は、この不恰好な巨大ロボットみたいな機械を、ひたすら見張り続けることだ。
 この機械はパワフルなだけが取り柄のぶきっちょで、だから時々俺が手を差し伸べて、材料の向きを絶妙に修正したり挟まったゴミを引っ張り抜いてやったりする必要がある。
 まあ、ありていに言って、相当スリリングな仕事だ。

 餅つきの餅を臼の中でひっくり返すおばさんと同じだ。
 ホオジロザメの口が開くとそこに電気鋸が秒速何十回転もの速さで右に左に動いている、まあそんなイメージだ。
 だから手を出すのはタイミングが命で、慣れればどうってことないが、ミスって機械に巻き込まれたら、小指を失うとかそんなヌルいことじゃ済まない。
 腕一本引っ張り込まれても絶対にこの巨大な機械は止まるわけがなく、腕から肩、頭、胸、腹、腰、足と順に、あっという間に吸いこまれてしまう。
 そしたら俺の頭は厚さ3センチほどに潰れ、全身は20ピースほどのジグソーパズルになるだろう。

 まあしかし、俺は熟練工だから絶対にヘマはしない。俺の身体がハンバーグのネタになる、そんな結末を予想している奴には、お引き取り願おう。

 さて、俺の悩みについて、だ。
 この工場は狭い。というか、敷地は広いのだが、入るだけギチギチに大型機械を詰め込んでいるため、通路が極めて狭い。
 俺は、危険極まりない巨大機械から一瞬も目を離すことができず、一日ずっと機械の方を向いて立っている。
 なのに俺の背後の空間は直接通路になっていて、その狭いゴタゴタした通路をしょっちゅう人が行き交う。
 こんな配置をデザインした野郎を、俺の代わりにここに立たせてやりたいぐらい、シャレにならない危なっかしさだ。
 誰かがよろけて俺の背中にぶつかったら、次の瞬間、俺は機械に噛み砕かれる。
 俺が便所に行こうと振り返った時、そこに誰かがいただけで、俺はミンチになるだろう。
 文字通りの「危険と隣り合わせ」だ。本当にシャレにならない。

 だけど、さっきも言ったが、これは俺がバラバラになる話ではない。おあいにくさまだ。

 第一、同僚だって俺を機械の歯車の中に突き飛ばして、業務上過失致死かなんかで懲役は嫌だろう。
 だから、増産のための議論に夢中の上役二人組も、パンパンに詰まった段ボール箱を抱えてふらついている荷物運びの若僧も、台車一杯に弁当を積み上げて昼前に入ってくる太ったおっさんも、みんな俺の後ろを通り抜ける時には、絶対に守らねばならない掟がある。

 それは俺に向かって「後ろ通りまーす!」と絶叫することだ。

 なにせ機械がとにかくうるさい。だから、単なる声掛けじゃ足りず、絶叫するのだ。
 俺の方も、機械の騒音のせいで、周囲の足音なんて聞き取れない。そして機械から目を離せないのだから、キョロキョロ左右を見て危険に備えることすらできない。
 だからこそ、この決まり事がある。
 機械の音に混じって背後の通路の右や左から「後ろ通りまーす!」が聞こえると、俺は即座に、ほんの四分の一歩だけ前に出て、背筋を伸ばす。
 すると声の主は、その狭い通路の俺の背後を、俺の背中に触らないように細心の注意を払いながら通り抜ける。俺は振り向きもせず、ただ直立して気配が通り過ぎるのを待つ。それだけ。

 俺はいちいち通り過ぎる人物の顔を見ない。人それぞれに違う声と体臭だけが通り過ぎていく。
 どのみち、機械ばかり場所を取っている俺の作業エリアでは、二十人にも満たない人間が機械の操作に従事しているだけなので、声を聞けば全員誰か分かる。
 彼らの大半とは昼飯時や更衣室や喫煙所で毎日顔を合わせているし、外部の人間も、弁当のおっさん以外絶対に俺の後ろは通らない。

 で、俺の悩み事について、だ。

 俺の労働環境というのはこういう感じなんだが、ところが最近「後ろ通りまーす!」の声に、現在工場で働いているはずのない人の声が混じるのだ。
 
 「後ろ通りまーす!」と声をかけられると、習慣的に背筋を伸ばす、それだけのことを何年も繰り返しているので、ほとんど無意識の動作みたいになっていて、俺はしばらくその声の主のことを深く考えるということすらしなかった。
 そもそも、その声は、この工場で昔から聞き馴染んだ声なのだ。
 その声の主とは、俺に仕事を教えてくれた先輩のヤマケンさんに違いない。いや、ヤマケンさんの声そのものだ。

 俺は、この機械に巻き込まれると体が20ピースになるとかいろいろ妙に生々しいことを言ったが、あれは俺のホラでも空想でもない。
 頭を3センチの薄さに加工され全身が20ピースになり、それに飽き足らず体の一部をハンバーグのタネみたいな紅白ミンチに練り上げられてしまった実例がいて、それがほかならぬ声の主、ヤマケンさんなのだった。ほんのふた月ほど前のことだ。

 間違いないヤマケンさんの声で、「後ろ通りまーす!」が聞こえる。
 すると俺は、他の人の声が聞こえた時の何十倍も緊張して背筋を伸ばす。
 目の前ではゴウンゴウンキュインキュインと機械が回り続けている。声の主の気配が右の肩口から背中、左の肩口へ通り過ぎてゆく。
 絶対に、振り向いて正体を確かめることができない。振り向いたら、押される。殺られる。ヤマケンさんに、機械の方に突き飛ばされる。俺にはそうとしか思えない。
 俺はいつもヤマケンさんが通り過ぎるまで、全身をガチガチに強張らせて、ただ機械の方を睨んでつっ立っているしかない。

 だから最近ひどく肩がこる。これが俺の悩み事なんだ。本当につらいんだよ、これが。

 

(2016年 8月)