『懶惰なる山河、山々の襞』

  
  一章 解・虫

―前編―



  



 渋谷での撮影を終え、石野茜は、下り電車の吊り革にぽつねんとぶら下がっている。
 やたらと駅から遠いスタジオだった。坂を登って足が疲れてしまった。
 モデルといってもまだまだ駆け出しの茜は、煌(きら)びやかなグラビアモデルやファッションモデルとは、少し仕事の系統も違う。
 今のところ、アート系の、撮影後に加工されることも多い「素材」としての撮影の仕事と、事務所が斡旋してくれる商業モデルの仕事ばかりだ。
 前者のカテゴリの仕事では、CDのジャケットを飾ったこともあるが、そう言われなければ茜だと分からないような、凝ったアートグラフィックの一部に使われただけのことだ。
 後者の仕事としては、新作の服を纏ってカタログに載ったりもするのだが、ファッションショーのような華やかな舞台は、まだ経験が無い。

 時間はまだ夕刻、帰宅ラッシュの時間帯より少し早いものの、車両内はそれなりに混んでいる。座りたいと思うが、空いた座席は見当たらない。
 数か月前に故郷の高校を卒業し、上京して、かねてからの約束だったモデル事務所に入った。今では、事務所にあてがわれた狭いマンションで一人暮らしの日々だ。
 まだまだ稼げているわけではないので、暮らしぶりは地味な女子大生となんら変わらない。
 いつまで経っても都会の電車には慣れないな、茜は思う。
 人ゴミが、東京の、人の過密さが、田舎育ちの自分には、どうしても辛い。
 相当な売れっ子になっちゃえれば、車で送迎、なんて身分になれたりするのかなあ……。でも、そんなのいつになるやら分からないし、私がそうなれる気も、全然しないな。
 隣に立つサラリーマン二人の会話がうるさい。今日はヘッドフォンが無い。音楽端末の充電をしたまま、うっかり持って出るのを忘れてしまったのだ。
 さほど音楽が好きなわけでもないが、混んだ電車では習慣となったヘッドフォンが無いと、しんどい。
 茜は、細くスラリと背が高いとはいえ、東京では、サングラスと帽子を着用すれば人目を引くこともない。隣の二人組は、茜を気にすることもなく、とりとめもない言葉を吐き出し続けている。
「……嫌んなっちゃいますよねえ」
「ああそうだな。また、旨いもんでも食いに行きてえなあ」
「ああ、それならサトーさん! 今度カニ食いに行きましょう、カニ! 俺旨い店知ってんすよ!」
「ええ? こんなクソ暑い季節に、カニ?……」
 茜はハッと息を呑む。
 全身が、ビクッと震え、そして強張り始めた。

 カニ! カニ! カニ……!

 茜は、耳に飛び込んできた「カニ」という単語に、過剰に反応した自分に気づく。
 ドス黒い霧のようなものが、茜の意識を覆い尽くす。聞きたくて聞いてたわけじゃない。でも、あれ? なんだか……。
 茜は、思わず息を呑んだ後、数秒息を止めてしまい、すると、ふいに、自然な呼吸の仕方が分からなくなってしまった。
 茜の華奢な肩と胸郭は酸素を求め、勝手に、ハッ、ハッ、と痙攣のような動きを繰り返す。浅い速い呼吸が続く。全くコントロールできない。
 何だろう、これ……?
 そう思う頃には、視界に靄(もや)がかかり意識がスーッと遠のき始める。手足が痺れる。
 どうしよう? ヤバい、ヤバい……!
 右手で掴んでいた吊り革を、すがる様に両手で握り直す。 両脚の間隔を少し広げ、倒れないように踏ん張る。それでもすぐ膝に力が入らなくなり、ガクリと折れ曲がりそうになる。
 幸い、正面に座っていた婦人が、茜の様子にすぐ気づいてくれた。
「あらあなた、具合でも悪いの? どうぞ、座んなさいよ」
 婦人は、茜にそう声をかけて立ち上がる。
 茜はお礼を言う余裕もなく、ドサリと尻餅をつくように座席に崩れ落ちる。両隣の乗客は迷惑そうに身を引き、周囲に立つ数人は、茜をジロジロ見ている。
 依然、速い苦しげな呼吸が続いているが、失神しそうでも嘔吐しそうでもない様子を見て、周囲の緊張と、注視の包囲網は解けたようだ。
 サラリーマン二人も、水をさされて白けたのか、カニの会話をやめてしまった。

 次の停車駅までの数分で、茜の呼吸は何とか回復し、しっかりした足取りで一旦電車を降りることができた。
 ああ良かった、茜は思った。
 車両を出る時、席を譲ってくれた婦人にやっと礼を言えたので、そのことに一番ホッとしていた。



  



 或る冬の日の出来事だった。茜は中学三年生、地元の高校に進学するため受験勉強に勤しんでいた頃だった。

「今日の晩は、ご馳走やで。早(はよ)う帰ってきなさいよ」
 朝っぱらからホクホク顔の母にそう言われ、茜は学校に送り出された。
 昨晩夕食が終わった後に近所の漁師のおじさんが来ていたのが、それだろう。何か良いものを、お裾(すそ)分けに届けてくれたのだ。
「あれえ、お宅、もう晩御飯いただいてしもうたかあ、間が悪うて、ごめんやでえ」
 そんな声が、勉強部屋にいた茜にも、何となく聞こえていた。公務員である父親の飲み友達であり、釣りの師匠でもある、潮に焼けて真っ黒な、優しい初老の海の男。
 砂川という姓で、石野家の近所では砂川のおじさん、で通っていた。
 夕方、帰宅してみると、ご馳走の正体は大きな越前ガニだった。
 弟はもう小学校から帰っていて、テレビゲームに興じている。父親の帰宅を待って、家族全員で食卓を囲む。
 テーブルの真ん中に、石野家で一番の大皿。その上に、茹で上げられた立派なカニが一つ、ドカンと胡坐(あぐら)をかいている。子供二人と母の手元には、ご飯茶碗と三杯酢。父だけは、ワサビ醤油と日本酒の徳利。
 食いしん坊の弟が主導して、家族全員の、いただきまーすの声が揃う。弟は一番はしゃいでいるのだが、手を伸ばそうとして、少し躊躇(ためら)っている。
 大きなカニに気圧(けお)されているのだ。父がそんな弟の様子をニコニコと見て、母に目くばせする。
「はいはい、取り分けてあげるから、おとなしゅう待ってなさい」
 母が主婦らしい頼もしさでカニの脚に手をかける。父は待ちきれず、つまみも無しに、お猪口(ちょこ)の日本酒をクイッと飲み干す。

 その時だった。

 カリッ、カリリッ……

 カニの硬い外殻と皿の表面が、擦れ合うような音がした。
 茜は、てっきり、母がカニの脚をもごうと力を込めた際発生した音なのだろう、と、最初は気にも留めていなかった。
 だが、母が「あら? 何やろ、これ?」と呟き、反射的に手を引くに至り、茜はまずカニではなく、母の顔に不審の目を向けた。
 母の顔は、笑顔のまま固まっていた。
 茜は、次いで母の視線の先に目をやる。
 その皿の上のカニは、まだ誰も手を触れていなかった。
 にもかかわらず、カリカリという音は続いていた。
 家族四人の目が、皿の上のカニに集まる。
 にわかに信じがたい光景が、そこにあった。
 カニの八本の脚が、一対のハサミが、細かく、しかし激しく、動いている。
「ええーっ?」
「嫌あああ」
 家族が、思い思いに声を上げる。

 凍りついた家族が見守る中、皿の上のそれは、ついに大きく脚を踏み出し、歩行を始めた。
 すべての脚を複雑に操り、大皿から歩み出て、テーブルクロスの上を移動する。横這いではなく、直進でもない、どこに向かうのか予測がつかない蛇行した移動。しかも、速く、力強い。
 子供二人は、椅子をひっくり返してキッチンの隅に逃げ出している。
 それは、ついにテーブルの端に達し、そしてあっけなく床に落下した。
 ドサリ、といかにも重そうな音をたて、それでも脚がもげるでもなく、またガサリ、と動き始めるカニ。
 茜は、思い出したように大きな悲鳴を上げた。もしかしたら自分に向かってくるのではないか、という直感的な恐怖に貫かれたのだった。
 たっぷりの時間、沸騰した大鍋の湯で茹でられ、真っ赤に色を変え、それでもこいつは生きている。
 なぜ? 
 父親が、空になった大皿を両手で持ち、それで叩き潰そうとして狙いを外す。皿は虚しく二つに割れる。
 カニは、誰に襲いかかるでもなく、かといって逃げ出そうとしているようでもなく、ただ傍若無人に床を少し移動して、一旦止まった。
 死んだのではなかった。
 脚は苛立っているようにせわしなく動き続け、ガサガサと、皿の上とは違う音を立てていた。
 殺気だった顔の父と母が顔を見合わせる。恐る恐る、移動をやめたカニを上から覗き込む。しかし手は出せない。カニは、まるで何事かを考え込んでいるようにも見えた。
 茜も、恐る恐る、母親の肩越しに、それを覗き込もうとした、その瞬間だった。

 バフッ!

 どこか間抜けな、放屁のような音が聞こえるのと同時に、何か小さな物が沢山はじけ飛んできて、母の肩や茜の顔を掠めた。飛び散ったのは、カニの甲羅や足の殻の破片だった。
「嫌あ! 何なん? お父さん、潰したん?」
「違う違う、勝手に破裂したんやで!」
 父も母も目を丸くしている。
「何なんや、これは?」
 父の額に、黒っぽい汚いものが付いている。いわゆるカニミソだ。同様のカニの柔らかい内臓が、部屋のあちらこちらを汚し、甲羅の破片も四方八方に飛び散っている。
 食器棚のガラス戸には、カニの脚が当たってヒビが入ってしまった。濃厚な臭気が漂う。
「天井まで、飛んだなあ……」
 茜が、茫然と上を見る。
 なんと、蛍光灯の隣にカニのハサミが見事に刺さっている。そのハサミの影から、ゴキブリのような小さな虫が這い出し、天井を素早く横切って、背の高い食器棚の裏に隠れた気がした。虫ではなく、ただの黑い影のようにも見えた。
「なあ! 今の、見た?」
 茜が驚いて天井を指さす。だが両親はどちらも、それを見ていなかった。
 母親は弟を抱きしめていた。父親は、あんぐりと茜の顔を見つめていた。
「おい茜! 大変やが! 顔、目ぇの下、切れとるがな!」



  



 大人同士の話は知らない。
 カニをお裾分けしてくれた砂川のおじさんに、あの夜の話がどう伝わったのかも知らない。
 だがあの日以降、茜は砂川のおじさんと挨拶を交わすことはなかった。遠くにおじさんを見かけると、必ずあの時のカニの悍(おぞ)ましい足音が、破裂した後の臭いが、脳裡に蘇ってきて、思わず、嫌あ! と声を上げそうになる。
 その時の臭い、というのは、茹でた新鮮なカニのそれではなく、海産物の肉が腐った、陽だまりの磯辺で時々鼻を突く臭いだった。
 海辺の田舎町ではありふれた日常の臭いだったが、茜には、そして石野家の全員にとっても、永久にそれは、現実離れした禍々しさの記憶を喚起する、特別な臭気となってしまった。

 あの後、石野家では、もう二度とカニを見たくない、と言い合ったものだ。
 母は、あの夜の痕跡を拭い去ろう、忘れ去り、無かったことにしようと、躍起になってカニの肉片を掃除した。壁や天井や家具の隅々まで、雑巾で丹念に拭った。
 壁や天井の傷は小さいながらも残り、家族は、あれが現実であったことを嫌でも思い知らされた。
 そして、傷が残っている箇所は、キッチンと家族それぞれの心の他に、もう一つあった。
 それは、茜の左頬だった。
 飛散したカニの破片により、茜の左目の下から目尻のすぐ近くにかけて、傷がパックリと開いていた。
 父が声をかけ、茜が負傷を自覚する頃には、経験が無いほどに大量の出血が茜の顔と服と床を汚していた。
 慌てて父の車で、通常の診察時間はとうに終わっていた町の医院に駆け込んだが、そもそも、そこには診察時間内であっても、老いた内科医一人しかいない。
 田舎町のこと、怪我でも何でも診てくれる経験豊かな医師ではあったが、少女の顔のことであるから、と大事をとって、かなり離れた町の大病院に電話連絡をしてくれた。
 おかげで茜は、翌日の朝には、専門の形成外科医の適切な処置を受けることができた。
 怪我の原因として、医者には、茹でたカニが爆ぜた、としか言いようがない。
 それが歩いた、とさえ言わなければ、医者の方でも「そんな珍しいこともありますかいなあ、甲羅の内側にガスでも溜まってたんかな? いやはや、怖いですなあ」などと首を傾げつつ、納得してくれた。

 あの、不気味なカニ騒動は、茜の人生に、忘れられぬ恐怖と共に、奇妙な転機をも与えてくれた。縫合処置には、縫い目と傷跡が残らぬよう、細心の注意が払われた。
 包帯が取れ、怪我の跡が全く見えなくなっても、左目の下の引き攣った感覚はずっと残った。
 当初は、眼球が無傷だったことと、顔に傷が残らなかったことを喜ぶだけの、茜や両親であった。

 最初に、茜に舞い降りた変化について教えてくれたのは、母親だった。
「なあ、茜。手術の後、なんや知らん、あんた、美人になったよ」
 高校の入試に合格し、進学の準備をしていた春休み。
 母は、茜の顔をまじまじと見て、優しくそう言った。
 確かに、茜本人も気になっていたことだが、数センチに渡る特殊な縫合を施した茜の顔は、負傷以前とは、どこか違うニュアンスを宿していた。
 怪我のせいで顔が変わった、と明言することが、思春期の茜をどんな傷つけるか、という懸念で、母はそれを言うのを黙っていた。
 しかし茜が鏡を見ては顔を曇らせているのを見かねた母は、意を決して娘に、言葉を選び、事前に一人で練習すらした上で、そのように語りかけたのだった。
 そう言われても、茜はすぐには納得がいかなかったが、母の優しい気づかいには、感謝せざるを得なかった。

 次は、茜が入学した高校の男子生徒連中だった。
 茜はもともと、母方の代々の遺伝で、細身で背が高く、肌や髪も美しく、女友達からは羨望の的であった。顔立ちも上品に整っていたが、例えば和服が似合いそうな、どこか田舎じみた雰囲気もあった。
 そんな茜が、怪我でしばらく入院して以来、都会的な大人びた表情を見せるようになった。
 進学により周囲の知人の大半が入れ替わったこともあるが、一般にその年頃の少女は、自然と日々女らしくなってゆくものであるから、怪我との関連性をとやかく言う声は、少なくとも茜の耳には届かなかった。
 ただ、入学初日からやたらと男子生徒の視線を感じ、クラスの女子生徒もそれは当然であることを納得せざるを得なかった。

 最後は、茜の高校の、堀江悠子という美術教師だった。
 新卒二年目の若い女性で、多くの女生徒から、悠子先生、と姉のように慕われていた。彼女は、今では親もとのこんな片田舎で美術教師に収まっているが、東京の美大では写真を専攻し、プロの写真家になる選択肢もあったらしい。
 そんな彼女が、或る日、茜を廊下で呼び止めた。
 ほとんど話もしたことがなかった堀江に、茜は半ば強引に美術準備室に引っ張り込まれ、午後の日差しがさし込む明るい窓際に立たせられた。
 堀江は、様々な角度から茜をじっくり眺め回し、
「うん、やっぱり、そうだわ」
 と、普段使わない標準語で呟いた。
「ねえ、石野さん。そのまま、パチパチって、瞬きをしてみて」
「一旦あっち向いて、それからこっちに、ゆっくり振り返って」
 そんな変な注文をし、さらにしげしげと茜を観察し、普段生徒に見せたこともない、都会の芸術家の顔で、にっこりと笑った。
「石野さん、あなたね、良いと思うわ。……あなた、写真のモデル、やってみる気ないかな?」

 堀江との秘密の交流は続き、堀江の東京の友人のスタジオに毎年夏休みと冬休みに招かれ、様々な写真の被写体となった。
 もちろん、いかがわしい写真ではない。堀江とその友人のプロカメラマンによれば、茜の顔立ちと表情は、モデルとして必要な、ある種の強い魅力をもっている、というのだった。
 茜の父親は、芸能人になるなんて、と勝手に怒っていたが、誰も茜の歌や芝居になど、才能を見出していない。朴訥な茜がそんなことをやれるはずもない。
 とはいえ、上京を勧められるだけの、たった一つの才能でも持ち合わせているというのは、田舎育ちの少年少女にとってはそれだけで法外な僥倖だった。
 茜の場合は、写真の被写体としての美貌がそれであり、茜の母親は、そして事情を全て飲み込んだ父親もまた、心配しつつも、この栄誉を喜んで茜を東京に送り出してくれた。

 茜としては、手術のせいで顔立ちが変わったことがきっかけなのかもしれない、という点がまず気がかりではあった。
 堀江にも、結局あの不可解な事件と怪我のことは話さずじまいになった。
 だがそれでも、内気な茜にしては貪欲に、このチャンスに喰らいついた。それには理由があった。
 茜は、家を出たかったのだ。
 私の家は、呪われている、茜はそう確信していた。



  



 帰りの電車内での、初めての過呼吸発作から回復した茜は、独り暮らしのマンションに帰り着いた。
 呼吸は元に戻ったものの、頭はズキズキと痛んでいた。
 途中の駅のホームのベンチで半時間ほど休んでいたので、いつのまにか日が暮れてしまっていた。

 茜は、バッグを置き、ふう、と一息つくと気を取り直し、料理にとりかかる。普段から料理をするのが好きで、昼の弁当も含め三食全部自分で作る。
 仕事上、食事の管理も大切で、タンパク質と野菜を多めに摂る。カロリーと脂肪分の摂取にはかなりの注意を払う。ちょっとしたスポーツ選手のようなものだ。
 電車内での突然の体調不良が嘘だったかのように、健康な食欲も戻ってきていた。
 小さなキッチンでフライパンを振るい、夏野菜の炒めものを作る。夕食のおかずだ。朝食はいつもパンではなくご飯。サラダと、卵料理か焼き魚を一品添える。
 スープも味噌汁も、全てインスタント。このキッチンには、小さな鍋もない。フライパンと炊飯器と電子レンジだけだ。
 茜は、料理を煮たり茹でたりすることができない。
 専らフライパンのみで、器用に様々な料理を作る。

 私の家は呪われている。
 家族には悪いけど、私はもうあそこにいたくない。
 今のモデル事務所から話があった高校三年の春、茜は家族に、全員で東京に引っ越せないか、とさえ、持ちかけた。さすがにそれは無理だ、と即座に拒絶されたが。

   *

 あの爆ぜたカニの事件から半年ほど経った頃、もう一つの事件が起きた。
 茜の顔の傷もとうに癒え、彼女が不思議な美貌を帯びているという事実を、周囲が認めざるを得なくなった頃。
 家族の心から、カニへの恐怖も薄れかけた頃だ。
 茜が高校一年生の、初夏だった。

 夕暮れ時。母親が、ホウレンソウか、青菜か何かを、大鍋で茹でていた。
 おそらくは、あの冬の日、茹でても死ななかった越前ガニを茹でた、その同じ鍋ではなかっただろうか。
「あら嫌や! 何これ? きゃあっ!」
 あのカニの破裂の時にも大きな声を上げなかった母が、茜が聞いたこともない声で取り乱している。
「何? お母さん、どうしたん?」
 茜が駆け寄る。母親が、鍋を指さす。
 小さな、小さなカニだった。

 小指の先ほどの大きさもない、半透明の、しかし形状はカニ以外の何物でもない、そんな何かが、青菜の下、グラグラ沸騰する鍋の熱湯の底に沈んでいる。
 一匹ではない。何百匹も、いる。
 小石を敷き詰めたように、蠢いている。
 母は半狂乱になって、コンロの火を止め、鍋の持ち手を両手で握ると、その中身を全部、果敢に流し台にぶちまけた。
「やめて!」
 茜は叫んだが、母の必死の行動は止まらなかった。
 茜には、その後起きることがまざまざと予測できた。
 そして、事態はその通りになった。

 シンクから、カサカサカサカサ、と小さく高い、異様な音がする。
 セミやハチが二枚のガラスの間に閉じ込められた時のような不愉快な音。
 そして次の瞬間、もうもうと湯気を立てながら、シンクから数百匹の小さな小さなカニが、あふれるように這い出してきた。動きは非常に速かった。
「嫌あ!」
 母子が同時に絶叫する。
 小さなカニの群は、四方八方に散開する。壁を登り、床を這う。高速で移動するカニのいくつかが、無造作に二人の裸足の脚に当たり、あるいは足の甲を乗り越えていく。
「熱っ! 嫌や、熱い!」
 二人は逃げ惑い、何匹かのカニを踏み潰し、恐怖と錯乱の極みに追い込まれた。
 廊下に避難し、顔を見合わせると、二人はどちらも泣いていた。
 それでも、ずっとそこにいることはできない。ガクガクと震えながら、引き戸を少し開け、隙間からキッチンを覗き込む。
 ……いない……。
 あたかも白昼夢だったかのように、小さなカニの群は、忽然と姿を消していた。
 二人がカニを踏み潰したはずの場所にすら、固形の殻の欠片は残っておらず、小さな水分の染みだけが残されている。まるで氷が解けた跡のようだった。実際には、それらは百度近い温度を持っていたのであったが。
 影も形もなく消え失せても、これが、母と娘二人して同時に見た幻だと思い込むことは不可能だった。
 二人の裸足のくるぶしや足の指や足の甲は、ところどころ、ごく軽い熱傷ではあるが赤く腫れ始めており、数日で治ったものの、カニを踏み潰した足の裏には、水泡ができた個所もあった。

 茜には、あの小さなカニの群の全部が、壁の隙間や家具の裏や床下に入り込んだようにしか思えなかった。
 それ以来、茜は、自分の家の家屋そのものに、恐怖を覚えるようになった。
 そして、鍋での調理ができなくなった。

   *

 ああそうだ、電車の中での急病のせいで、忘れてた。雪ちゃんから昼にメールが来てたから、帰りの電車の中で見ようと思ってたのに。
 自分で作った夕食を食べ終えてから、茜は思い出した。
 携帯を見ると、メールだけでなく、着信履歴も二度も残っている。
 メールには、〈雑誌、見たよ。茜ちゃん綺麗だった。ちょっと気になることがあるから、電話で話すね〉とある。

「変なこと言うと思って、聞き流してくれてえんよ。……なんかな、あの赤いワンピースの写真、初めて見た時、茜ちゃんの後ろに、何か写ってるように見えてん」
 茜は、即座に、そんなはずはない、と思う。自分だってあの写真は何度も何度も見たのだ。だが、雪子が嘘や冗談でそんなことを言うわけもない。
 気になって、携帯を頬に押し当てたまま、片手で問題の雑誌を探す。
 一般に売られるファッション誌のモデルとして、初めての仕事をしたので、先日雪子に知らせたのだ。雪子は、茜のことを応援してくれる唯一の同級生だった。
 あの雑誌、せっかく事務所でもらったのに、間違って捨てちゃったのかな、そんなはずないと思うけどなあ……。
「ううん、気にせんといて。私、今見てもそんなんもう見えへんし、見間違いやったんやと思う」
「でもこんな電話くれるって、相当心配してくれたんでしょう?」
「私、本当に、茜ちゃんのこと応援してたいんや。足引っ張るみたいなこと絶対しとうないし、私のこんな変な電話のせいで、茜ちゃんが明日の仕事の気分が乗らへんとか、それだけでも嫌なん」
 茜の高校時代は、無邪気だった中学時代とうって変わって暗いものだった。
 茜がモデルとして東京から声が掛かっていること、これは誰かに自慢したわけでもないのに、いつの間にやら噂になっていた。
 妬み、嫉み。
 男子生徒の人気を集めてしまった、というのも孤立を強める原因だった。
 もしかしたら、男子連中と適当に上手くやれれば、自然に女生徒とも仲良くなれたかもしれない。しかし茜は近寄ってくる男子生徒を全く相手にしなかった、そのことがかえって反感を買った。
 高校三年の時は、友人は雪子だけだった。
 雪子には、高校のクラスメイトとしては初めて、モデルをやっていることを話した。
 それを話してしまうと、堰を切ったように、そのせいで孤立していることについての悩みも、口を突いて出て、止らなくなった。
 雪子の生まれは、高校からさほど遠く離れてはいないが、相当に山深い村落だった。小中学校は合同で、生徒数が十名もいない分校育ち。
 高校生だというのに、通学困難との理由で街中に下宿している、そんな、素朴極まりない、そして自分と同じくもの静かな雪子にだけは、茜は何でも話せたのだった。
 二人の間で、足を引っ張る、と言えば、その高校時代のクラスの女たちの振る舞いが自然思い起こされる。
 二人して、はぁ、と電話口で溜息をつく。

「とにかくな、茜ちゃん、気いつけてな」
「うん……、雪ちゃんの言うことやし。雪ちゃん、前から時々そういう話するけど、当たったこともよくあったよね。高校の古典の吉崎先生が交通事故に遭う前も、なんか見えたって」
「うん……ほんま、ごめんな。気分悪うせんといてな」
「大丈夫。で、雪ちゃんに見えたんって、吉崎先生の時と、同じもんなん?」
「うん、何かはっきり幽霊みたいなんが見えたとかと違うで。何かこうモヤッと。あの……、お婆がな」
「ああ、雪ちゃんの、お婆ちゃん」
 雪子の祖母は、今はもう亡くなってしまったが、雪子が幼い頃、その山奥の村落に伝わる様々な不思議な話をしてくれたのだという。
「お婆は、そういうの、オヤマサマ言うとったなあ」
「え? 何て? オヤマサマ?」
「ううん。ごめんごめん、忘れて。私の勘違いやったら、それが一番ええんやし」


後編へ続く