『懶惰なる山河、山々の襞』

  
  一章 解・虫

―後編―

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 ……オヤマサマ……?

 オヤマサマ、どこかで聞いたことがある。
 そう言えば、小さい頃、あの優しかった漁師の砂川のおじさんが、この語句を口にしていたのを思い出した。

 そうだ。あのおじさんは、ごくたまに、カニのことをオヤマサマと呼んだことがあったのだ。
 古い方言のようなもので、伝わらないから、茜にはカニという標準的な名辞を使うように気をつけていたようだ。
「おっちゃん、今日は何獲れたん?」
「クロダイやろ、メバチやろ、それから、網にオヤマサマも一つ、かかっとったわ」
「オヤマサマ?」
「ああ、なあに、カニや。ただのカニのことや」
「なんでオヤマサマ、言うん?」
「ああ、なんでか、てか……。カニいう生きもんはな、けったいな形しとるやろ。海に棲んどる感じがせえへんやろ。
 ほれ、石ころやら岩やらが、動き出したみたいや。これな、あそこや。あの山の中で、土の中か、岩の中から生まれたんや。
 大昔のことやで。そんで、いつの間にやら、川を下って、海にも棲むようになったんやろなあ」
「山の中で生まれた……。そしたら、サルもイノシシも、オヤマサマ?」
「まあ、そうなるなあ。山の人らぁは、山の物は何でもオヤマサマや。
 山のこともオヤマサマ、山の中の神社のこともオヤマサマ、て言うなあ。山の人らぁは、何でもかんでもオヤマサマー、オヤマサマ―、言うんや」
「なんでやろ? 変やないの」
「うーん、どうなんやろなあ。石ころは、二つに割っても、どっちも石ころのままや。山の人らぁの話やと、オヤマサマも、そういうもんらしいで。
 せやから、どんな小さな物の中にもオヤマサマが入っとるんやと」

 そう言えば、雪子も、そんなお婆ちゃんの「迷信」の話をしてくれた。
 山の全ての物は、一つの神様みたいなものがバラバラになって分れた、とか。
 外国の神話みたいに雄大で面白いと思ったので、何となく憶えていた。
 でもこれが、砂川のおじさんの話と同じなのか、そもそもよく分からない。

   *

「ねえ、茜、知ってる? 海水浴の、フジツボの話」
 その日の仕事はかなり早く終わった。モデル仲間のエミルが屈託なく話しかけてくる。
 細いばかりの茜と違って外国人のようにグラマラスなエミルは、先日新作水着の仕事に行ってきたと言う。
 本人は、日焼けを禁じられているので、大好きな海で泳げず鬱憤が溜まっているらしい。
 水着だけ着せられて、太陽の下で泳げないなんて生殺しよ、と不満たらたらだ。そういうこともあって、なんとなく海の怪談など思い出して、話したがるのだろう。
「えー、多分知ってるかも」
 茜が明るく答える。
「あのね、友達の知り合いの人の話らしいんだけどね」
「ほら来た」
「海水浴で、岩場で遊んでて、膝をちょっと切ったんだって」
「でも治らない、って話でしょ」
「そうそう。それで、何日も痛くてたまらなくて、もう歩けなくなって、お医者さんにレントゲン写真、撮ってもらったんだって」
 茜は笑いそうになっている。
 なんだか、エミルの様子が面白いのだ。
 エミルは、彫りの深い顔に変に力を入れて、ものものしい顔を作っているが、かえってそれが大袈裟すぎて、エミル本人も笑い出しそうになっている。
「で、レントゲン撮ったら?」
「膝の大きな骨のお皿の裏っかわに!」
「うんうん! 裏っかわに!」
「ジュゴンの親子が住み着いてた!」

「……そのオチは予想できなかったなあ」
 二人は笑い合う。
 茜も、話を合わせているわけではない。
 茜はエミルの明るさが好きだ。こういう時、都会に出て来てよかったと思う。
 高校時代、何となく茜を遠ざける女子か、あるいは露骨にあること無いこと陰口を言う女子しか周りにいなかった。雪子だけは、茜を支えてくれたけれど。
 そして、いつの間にか、東京育ちのエミルとも普通にふざけられる自分がいることにも、気づいている。
 不安も大きかったけれど、やっぱりこっちに来て良かったんだ……。東京に送り出してくれた両親にも、堀江先生にも、感謝している。

 茜はその夜、エミルに連れられて、生れて初めて酒場に行った。
 少し前に十九の誕生日を迎えたばかりの未成年だが、エミルは気にもしない。高校出て働いてるんだから、もう大人よ、と、屁理屈ではなく、本心からそう思っているようだ。
 どこにでもある、そこそこに小奇麗な焼き鳥屋に入る。
 エミルが、事務所の先輩らしい口調で教えてくれる。
「間違っても、一人や女同士で、いかにも芸能人御用達、みたいなおしゃれなバーとか行っちゃダメよ。業界人ぶった嫌な男たちが群がってきて、もうゆっくりお酒なんて飲めるわけないんだもん」
「へえ。憶えとこうっと。焼き鳥屋なら、大丈夫なの? ナンパとかないの?」
「こういう所はね、かえって、女二人で楽しくしてりゃ、放っておいてくれるもんなのよ」
 エミルは、まだ二十一だというのに、なんだか頼もしい。その、業界人ぶった嫌な男たち、に、さんざん辟易とさせられてきたのだろう。

 一本八十円の焼き鳥を沢山食べ、一杯四百二十円のビールを一度おかわりして、茜の初めての酒場体験はお開きになる。
 エミルと陽気にハグして別れ、東京で初めてお酒を飲んだことを、雪子にだけは報告したいな、と思う。
 本当に今夜は楽しかった。でも両親は心配するに決まってるから、内緒にしておこう……。
 夜になっても気温が下がらない湿った夜風も、ビールに火照った顔にはなんだかとても心地いい。
 マンションの前まで、フワフワしながらも何とか帰り着く。
 玄関のオートロックの暗証番号を一回押し間違える。これが酔っぱらうってことか。
 部屋に入って、Tシャツも下着もバスルームの前に脱ぎ捨てて、冷たいシャワーを浴びる。火照った顔が冷やされて、気持ちがいい。

 その時だった。

 左目の下の古傷が、ズキッと脈打った気がした。
 違和感はその一瞬だけだった。痛みが継続するわけではなかった。
 少し不安になって、茜はバスルームの湯気で曇った鏡を覗き込む。傷が開いているわけでも腫れているわけでもない。
 ただ、両頬が赤くなった、若干だらしない自分の顔があるばかりだ。
「気になって、顔のレントゲンを撮ってもらったら、……カニさんが大きなハサミでピースサインをしていました!」
 エミルに今作ったこのジョークを披露し、エミルが笑う場面を想像して、茜も一人、湯船の中で小さく笑う。

 髪を乾かし、すぐベッドに入る。横になり目を瞑っても、まだ自分の顔がニコニコしているのが分かる。

 太陽が頭上でギラついている。とても暑い。真夏の強い日差しの下、路上に犬が横たわっている。
 多分、死んでいる。
 子供の頃ではない。ここは多分東京だ。
 犬の白い腹が内側から破れる。
 その中には小さなカニが大量に詰まっていて、蠢き、そして次々に這い出し始める。
 近くに立つ自分の足元まで至ったらとても嫌だな、と、飛び下がって逃げたいのだが、両足が言うことを聞かない。一歩も動けない。
 やがて、犬の目が動く。
 変だな、と思っていたら、犬の眼球が内側から押されるように転がり出る。
 その空洞から這い出したのは、やはりカニだ。
 何匹も何匹も、眼窩から、開いた口の舌の奥から、カニが這い出してきては零れ落ちる。
 気づけば、いつの間にか犬の体が、見憶えのある人間の体になっている。
 ああ、あの服は、そうだ。私が、あの雑誌の撮影で着た、赤いワンピースだ。
 そして、当然のように、犬の顔は茜の顔になっている。目から口から鼻から耳から、ポロポロとカニが零れ落ちている。
 よく見ると、左目の下に、横一直線に、真っ赤な傷がパックリ開いている。
 横たわり蝕まれ這い回られている茜を近くで見守るもう一人の茜は考える。
 あの傷からだけは、なぜカニが出てこないんだろう?
 目からも口からも出て来ているのに、不自然だ。
 あっ、と茜は気づく。
 あそこは入り口で、その他の穴が出口だからだ……

 そこで目が覚めた。
 生れて初めて見るような、鮮明で強烈な悪夢だった。
 初めてのビールのせいかもしれなかった。また過呼吸が起きそうな気配を感じ、常備してある枕元のビニール袋をまさぐった。
 過呼吸発作の時は、それを口に当てることで応急処置となる。電車での過呼吸発作のすぐ後、診療を受けたメンタルクリニックの医師のアドバイスだった。
 次の受診日に、初めて酒を飲んだ夜に具合が悪くなったことを、主治医である女医に話した。茜は、予想外にきつく叱られてしまった。



   



 廊下でエミルの声がする。
 もう一人のモデルとヒソヒソ話を始めた。
 茜は事務所の応接室で、一人待たされていた。
 茜は、自分がここにいると気づかれることだけを恐れ、必死に息を殺した。
「ねえエミル」
「んん?」
「あの子さあ、顔、いじってるよね」
「ええ? どうだろう。茜には、私そんなふうに思ったこと無かったな」
「私そういうの、何となく分かるのよ」
「どっちでもいいじゃん」
「だって、そんな子に負けたら、悔しいじゃん。次の仕事、まだだれが選ばれるか分かんないんでしょ。カメラマンの先生がモデル決め、まだ悩んでるとか」
「どのみちさ」
「うん?」
「どのみち、私あの子には負けないよ。私、港区生まれの渋谷育ちだもん。生まれてから吸ってきた空気が違うんだから」
「ふふ、すごい自信。でも、まあ、そうよね……」

 あーあ。
 茜はとぼとぼと一人歩きながら考える。
 カニのオリジナルジョークは、エミルに話せないな。
 話すとなると、カニの殻で顔を切って手術した、ってところから始めないといけないから。でも顔の怪我の話は、もう永久に、内緒にしなきゃいけない。
 仕事帰りの、とても疲れたいつもの帰り道。
 私の顔は、分かる人が見れば、やはり不自然なのかな?
 いや、そんなことより、エミルの言葉が何倍もショックだった。
 エミルは私を可愛がってくれる。でも同時に、田舎者だから、格下だ、とも思っていたんだ。

 近所の公園で、いつもの野良猫が、図々しく茜に近寄ってくる。
 このモノトーンの大きなブチ猫は、茜に怯えたり警戒したりなどしない。頭や背を撫でてくれ、時にエサさえくれるのを、よく知っているからだ。
 その猫が、今日は、何か黒っぽい物を咥えていた。
 よく見ると、カニだった。
 茜は、自分が何かを見間違えたのだと確信しつつも、気持ちが悪くてその場を走り去る。
 夏休みの子供が、青いナイロンの、魚籠(びく)のようなものを持っている。ザリガニ捕り遊びだ。だが、その魚籠の中は、小さなカニで満杯だ。
 今日は酔っていない。これは夢ではない。
 息ができなくなりそうだ、という嫌な予兆の感覚を感じる。
 発作時の頓服として、比較的強い抗不安薬が、茜には処方されていた。白い細長い粒を取り出し、噛み砕く。

 茜は、部屋に駆け込むなり、真夏だというのに、タオルケットを被って布団の上で震えていた。薬はすぐ効いてきて、呼吸は落ち着いてきた。
 やがてのっそりとベッドから這い出した茜は、一人暮らし用の小さな冷蔵庫を開ける。
 料理を作る気はない。食欲は全く無い。
 冷蔵庫の扉側のドリンク立てに、ドライビールのロング缶が一本入っている。
 エミルと飲んだ翌日、酷い悪夢を見たにもかかわらず、酔いの楽しさが忘れられなくて、コンビニで買って帰ったのだ。
 レジで、年齢確認を、という機械音声が聞こえギョッとしたが、モデル修行で鍛えたすまし顔で聞こえないふりをしていたら、店員が無表情でその警告を勝手に解除した。
 エミルと焼き鳥屋に入った時も、大人びた容貌のおかげで、年齢については一切疑われなかった。

 茜は、メンタルクリニックの女医の話も忘れてはいなかった。
 ……まだ未成年だから、これまで注意することもなかったけど、不安神経症の持病がある患者さんは、飲酒はよくないの。飲酒によって発作が誘発されることもあるから。
 一般に、もっともっと重症な患者にしか、禁酒しろ、とは言わないんだけど、石野さんの場合、未成年なのだからとりあえず飲んじゃだめよ。
 二十歳になっても、お勧めは全くできない。飲まない方がいいのよ。どうしても飲むなら、酔っぱらってはいけない。ほろ酔いまでで留めること。
 そして、抗不安薬とお酒との併用は、酔いを飛躍的に強めるから、絶対にしてはダメよ。薬のせいで発作は起きなくても、泥酔することがあるの……。

 さっき、頓服を飲んだ。だから、ビール飲んじゃいけないのかもしれない。
 だけど、ビールを飲めば、今感じている恐怖から、そして昼間の嫌な記憶からも、逃げられる気がする。
 ビールを半分ほど開けて、クラクラし始めた頭で茜は考える。

 もしかしたら、故郷のカニたちも、東京に来たかったのかもしれない。
 東京に来たかったから、まず先に、私を上京させたんじゃないのかな。
 カニたちだって、あんな何もない田舎町じゃつまんなかったのかも。
 仲間みんなで、私を足掛かりにして、東京に住み着いちゃおう、なんて……。
 そこまで空想して、茜は気づく。
 あれ? 私、なんでカニの群が東京に現われた理由、なんて考えてたんだろう?
 まだ、カニの群なんて、東京に現われていないのに!
 ただ、私が悪夢を見た、ってだけなのに!
 何で私は、未来のことなんて考えていたんだろう?
 ……未来?
 これは未来の出来事なの? そのうち、本当に、カニの群が、ここに、やってくるの?



   



 ビールを飲んで、いつの間にか眠ってしまった茜は、夜遅くに目を覚ました。
 夜明けまで、まだかなり時間がある気がする。
 携帯で時間を確認しようとするが、枕元に無い。
 壁の掛け時計に目をやる。文字盤の白い部分に蛍光塗料が塗られており、暗闇の中でも針の位置が浮かび上がる、便利な時計だった。
 いつもなら、暗闇の中でも、時間が分かるはずだった。いつもなら。
 ところが今、時計の長針と短針は、見えたり見えなかったりする。時間が読み取れそうで読み取れない。
 なぜだろう。部屋の蛍光灯を点けるしかないようだ。
 ベッドの真上に紐が垂れている。布団の上にちょこんと座って、手探りでそれを掴んで、引く。

 明かりの点いた部屋は、床も壁も家具も、四方八方様子が変わっていた。
 すべてが濃いグレーのまだら模様に覆われていた。
 そして、その模様は、蠢(うごめ)いていた。

 壁を、カーテンを、無数の小さな虫のようなものが這い回っていた。
 カニだ。小さな小さな、カニの群だ。
 気づけば、カサカサカサカサと、小さな不愉快な音が絶え間なく聞こえている。窓の外の蝉の鳴き声だと勘違いしていたのだ。
 掛け時計の上にも、それらは何匹もいた。だからよく見えなかったのだ。ガラス板の上にはりつき移動できるほどに、それらは小さく軽い。
 かと思えば、床には掌の半分ほどの、比較的大きなカニも、何匹もいる。何か言いたげに、モゾモゾと動いている。

 茜は、ベッドから飛び出す。
 いきなり、大きなカニを素足で踏み潰し、心が萎えそうになる。だが、勇気を奮って玄関まで行き、部屋を脱出しようとする。
 玄関の扉が、いつものようにスムーズに開かない。
 恐怖に駆られ強く押すと、ザリリッと固く小さな何かを磨り潰す音がした。
 見ると、玄関の外は、室内とは比べ物にならない密度でカニに覆い尽くされていた。
 きっと、玄関と逆方向のベッドサイドの窓の下も、そうにちがいない。
 慌ててドアを引いて、玄関から撤退する。
 しかしこの部屋の内部にも、窓から、下水道から、玄関の郵便受けから、カニが何万匹も、殺到している。さながら、産卵のための集団上陸のようだ。

 今、かろうじて無事なのはベッドの布団の上だけだった。帰りは、極力カニを踏まないように、注意深く爪先立ちでベッドに戻る。
 ベッドの近くに、さっき踏んだカニが、汚い汁に塗れて潰れている。
 ……全部潰せば、私逃げられるのかな……?
 しかし、潰れたカニの甲羅の破片の一つ一つが、もぞもぞ動き出すのを茜は見てしまう。よく見ると、破片や千切れた脚の一つ一つが、小さなカニに変形して、また元気に動き出そうとしている。
 ……このカニは死なないんだ……。潰しても、数が増えるだけなんだ……。
 石ころは、二つに割っても石ころ。オヤマサマは、そういうもん。砂川のおじさんはそう言っていた。

 お母さん、お父さん、雪ちゃん! 
 茜は、電話で助けを求めることを、ようやく思いつく。
 だが携帯電話はバッグの中だ。そのバッグは、部屋の反対側の隅で、すでにカニに埋もれていた。
 今、茜にできる抵抗は、ベッドに這い上がってくるカニ、壁や天井から落下してくるカニを、ベッドの外に払い落とすことだけだった。
 室内のカニの数は、ますます増えているように思われた。

 どうかこれが、馬鹿げた夢でありますように!
 私、もう一生お酒は飲まない! お父さん、お母さんごめんなさい。雪ちゃんも、せっかく忠告してくれたのに、無駄になっちゃってごめんなさい。
 これが夢じゃなきゃ、私はもう終わりだ。
 もうカニは、私の脚を登って来てる。きっと、夢で見た犬みたいに、体の中からカニに食い荒らされる。早く! 早く! 夢なら醒めて! お願い!

 茜の呼吸は、どんどん浅く速くなっていった。
 意識は白く濁り始めた。
 何百何千もの小さなカニが肌を這う、おぞましい感触だけを、鮮烈に感じ続けていた。
 茜のその皮膚感覚は、これが決して夢ではないことを告げていた。

(2013年 8月 kindle にて発表)