―後編―
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6 台車を押す
翌朝、幾分無駄に暗すぎる俺に戻ってはいたが、しかし気分は、とても久しぶりに、晴れ晴れとしていた。
前の晩が異常に楽しかったから、というのが理由の全てではない。
もっと大事なのは、初めてこの故郷で、話の分かる大人の泥人形というものと知り合えたからだ。
顔を洗い、隣の喫茶店で朝食を摂った俺たちは、いちゃつくこともなく、すぐ約束の行動に取り掛かることになる。
俺は、アキホに言われるがままに後をついていった。
「Fさん、どこに住んでるって言ったっけ? T××市?」
T××市というのは在来線に乗り換えたターミナル駅のある町だ。このピラミッドのあるM×××市と五十歩百歩の田舎だ。
「いや、首都」
アキホは、非常に驚いた顔をした。そしてすぐに無理に顔を元に戻した。
「へえ……。そんな感じは、しないね」
「そうは見えないか?」
「だって首都帰りってさ……。そりゃ何人も見てるけど、みんないけ好かないもん。かっこつけちゃって。自分は田舎もんじゃねえぞ、って雰囲気出しまくって」
「俺は違うの?」
「うん、もっと自然、っていうか、中途半端な感じっていうか」
ああ、つまり、俺は都会帰りにしちゃ野暮ったいってことか。少しへこんだ。
「でもさ」
アキホは若干気不味くなった雰囲気を変えようとする。
「充分かっこいいから。っていうか、それぐらいがちょうどいいんだよ。ほんとの都会人ってさ、そういう部分隠すでしょ」
隠したつもりは全くないのだが。
つまり俺が微妙に貧乏くさくダサいだけだ。
結局、田舎の人が抱く都会人のイメージというのは、都会の上手くやっている奴らのイメージなわけで、それと勝負してもなかなか勝てるもんじゃない。
「それをさ、半端な奴ほど、見せつけようとするわけ」
言い訳の言葉も底をついてきて、だんだん虚しくなってきたのか、アキホは話を打ち切ろうとした。
まあとにかくだ、彼女は気どった都会帰りの泥人形ってものに反感があるらしい。
俺は運よくそれに引っかからなかった。それで良しとしようじゃないか。
連れていかれたのは食料品店だった。ピラミッドの工事現場の食堂の一つに、食料を搬入しているという。
アキホは、そこの同世代の女に頼み込み、なんとその日の配達仕事を交代してもらう。
お返しに今度さ、ミィちゃんには誰々を紹介するからうんぬんかんぬん。
女というものはこういう取引がとても上手だ。
昨日と違う守衛が立っている正門。
正門近くの駐車場に車を停め、ここから先は人力で食料品を搬入せねばならない決まりらしい。
しかし、俺とアキホの写真入り通行パスは、さすがに無い。
「ミィちゃんが熱出しちゃってさ」
「おかしなことしたら、即、とっ捕まえるからね」
昨夜の男とは違ってかなり若い守衛が、冗談っぽく言った。この辺りの男は、皆アキホに惚れちまっているにちがいない。
かくして、アキホの愛想だけで、本当に通れてしまう。
そのミィちゃんが病欠なのはともかく、力仕事役の相棒の男まで別人になっていることには、気づいているのか、それすら分からない。
広大な一番外側のフェンス際で厳しく侵入者をチェックするのは面倒だから、もっと内側の重要な部分だけが厳重に警備されているのかもしれない。
食材を搬入する。
アキホは書類のバインダーを小脇に抱えて颯爽と前を歩く係。
俺は駐車場から段ボール箱を積んだ折りたたみ台車を、ひたすら汗をかきかき押してゆく係。
アキホもこれが全くの初めてではないらしいが、搬入先の場所すら心もとない。しかし「ねえ、ここでいいのかしら?」で全部通用してしまう。
食堂裏の薄暗い冷蔵倉庫で荷物を降ろす。受け取りのサインをもらう。三往復して店の車が空になる。
倉庫から出て、少し戻る。人目が無くなると、アキホは用済みの台車を俺から受け取り、無造作に脇に押しやった。
「さて、社会科見学に行こう。あんまり時間ないよ」
俺は、もう少しだけ目立たない物陰に台車を押し込んだ。
周りを見れば、店で借りた作業服と同じ服を、実際の作業員も着ている。ヘルメットも同じだ。
アキホにくっついて、少しだけ歩く。
アキホの小さい尻が色っぽい。
「この辺のエリアだと思うんだけどなあ」
アキホは何やら呟いているが、あまり俺の方は振り向こうとしない。
巨大コンテナの隙間を抜けて、広い所に出た。
いきなり視界が開けたので二人ともビックリして、さっと身を引き、もう一度コンテナの影に隠れる。
アキホの横顔が近くてドキドキするが、今は浮かれている場合ではない。昨夜のランチキ騒ぎは、昨夜のことだ。
その作業広場の向こうの端は、石の壁になっていた。
それがピラミッドの最下段だということに気づくのに、少し時間がかかった。
目の前では、泥とホコリにまみれた作業員たちが、ゾンビのように歩き回っている。
なんだろう、この死に切った光景は。
動くものが無くて死んだようにしか見えない光景は、帰郷して以来ずっと目にしていた。
だがこの場では、皆動いているのに、光景全体が死んでいる。
むしろ、首都で何度かこういう感じを味わったことがある気もする。
視界の中で数十人が動き回っている。なのに生気がない。
俺はしばらく、じっと観察していた。
分かった。この印象は、全員同じ速さで動いていることが原因だ。
重い荷物を押す者も、何も持たず移動している者も、同じ速度、同じトボトボとした歩き方だ。
皆うつむいている。苦しんですらいない。ただ、心を無にして重労働をこなしながら仕事が終わる時間を待っている。
誰もが、叱られないギリギリ最低限の速さでしか動こうとしないから、皆同じ速度になるのだ。
俺は観察を続ける。
「あれ? でも」
申し訳程度に身を隠した俺たちに、気づいているのかいないのか、こちらには目もくれず、前を通り過ぎた労働者の横顔。
ヘルメットから頬に、汗が垂れている。その汗に顔に付着した土ボコリが混じり、黒い汗となっている。
なんだか、おかしい。
どうも、今の労働者は人間のようだ。
表情が一切消えているので気づかなかったが、汚れ方で初めて、人間くさいと分かった。
「なあ、もしかしてここの労働者には、人間が混じってるのか? まさかな」
アキホは答えなかった。
その代わりに、すこし冷やかな顔になって少し遠くを指さした。
「少なくともね、あの人は、あの現場監督は、泥人形」
7 逃げる
「あれはまぎれもなく泥人形。人間になりたい、人間かぶれの男よ。時々はきっと、本当に自分のこと人間だと勘違いしてる」
アキホが指さしたのは、明らかに一人だけ偉そうな、現場監督だった。
「泥人形? 信じられないよ。泥人形が現場監督だって? しかも、人間の労働者の監督? ありえないだろ。第一こんな遠くからじゃ、人間か泥人形かなんて判断できないし」
まだ俺は、現場のカラクリを把握できていない。
そうこうしていると、おずおずと現場監督に近寄る者がいる。
さっき俺たちの目の前を通った、あの人間の労働者のようだ。
犬のように遜(へりくだ)っている。
一方話しかけられた現場監督は、面倒臭そうにふんぞり返っている。
労働者が指さしたのは、明らかに二人だけ場違いな、俺たちだった。
俺たちは、チクられたわけだ。
「うわぁ、やべえ、逃げようぜ!」
駆けだそうとする俺。グッと身を強張らせるアキホ。
現場監督が、「おい、あんたら」とか声をあげながらツカツカ近寄ってくる。しかしアキホは逃げない。
アキホは早口で言った。
「証拠を見せてあげる」
何の証拠だ? 俺が考え込む間もなく、アキホはいきなり、いつのまにか隠し持っていた小石を現場監督に投げつけた。なかなかの剛速球だった。
この現場で唯一ヘルメットをかぶっていなかった現場監督の、七三分けの頭か額に、それは見事にヒットした。
ボクッという嫌な音と、グワッみたいな悲鳴と、そして現場監督の頭部からの砂ボコリとが、ほぼ同時に上がった。
血しぶきではなかった。砂ボコリだった。
つまり、この男は、本当に泥人形だったのだ!
「さーて、逃げるよ」
多分、見事に石が命中したのでとても気持ち良くなったのだろう。
アキホは浮かれ気味で、俺を置いてけぼりにして猛ダッシュした。
慌てて俺も後を追った。
もうすぐ、先ほど入ってきた正門だ。
守衛はいるが、トラックの運転席の誰かと喋っていて、こちらを見ていない。
まだ異常に気づいていないので、挟み討ちは免れそうだ。
と、そこまで俺が予測した時、あああ、とアキホが情けない声を出して、立ち止まった。
俺も急停止せざるを得ない。
「どうしよう、台車、忘れてきちゃった!」
「えー?」
正気かよ、という表情で、アキホの顔を覗き込む俺。
そんな二人の背後に、俺より一回り大きな体格の男が、自分の額を痛そうに押さえ立っている。
言うまでもなく、追いついた現場監督だ。
「やっぱりお前か、アキホ!」
「部屋を借りる!」
若い守衛に偉そうに言い捨てて、現場監督は門柱横の宿直室みたいな小屋に、俺たち二人の手を両手で引いてズカズカ入っていった。
俺たちは逆らうことができなかった。
中に入り、呑気に缶ジュースを飲んでいたもう一人の守衛を追い出すと、現場監督は部屋に鍵をかけた。
「なんでここにいる、アキホ?」
「この人間のふりをした泥人形、この人がね」
アキホは、問い掛けを完全に無視している。
『俺が頼んだからだよ』声に出す勇気がないので、心の中で返事をしてやる俺。
「それに、なんで石なんかぶつけた、アキホ?」
「この人がね、私の恥ずかしい兄なのよ」
さすがに、大体の察しはついていた。
『多分、ただあんたのことが大嫌いだからだよ』とまた、俺の心の声。
泥人形同士だからとはいえ、テレパシーが使えるわけもないのだが、アキホの兄に俺の心の声が届いたように見えた。
もともと、彼にその心当たりがあっただけなのだろうけど。
8 誤解される
現場監督は、アキホを問い詰めるのを、すぐ諦めた。多分もうずっと、まともに口などきいてもらっていないのだろう。
となると、俺の番だ。と、覚悟する間もなく、彼は俺に目を向けた。
というか、いきなり敵意剥き出しで睨みつけてきた。
最悪だ。
「で、君は誰だ?」
俺は、質問を質問で返すという泥人形特有の話術を用いた。
「ここでは、泥人形が、人間より、偉いんですか」
「む?」
監督の目つきが、少し緩んだ。
そして今度はアキホが一瞬、俺を厳しい目で見たが、俺だってこのアキホの兄に媚びたつもりはないし、そういう口調で言ったわけでもない。
俺は、純粋に、その答えが聞きたくて、そう質問しただけだ。
「それを知りたくて、忍び込んだんです」
大雑把に言えば本当だが、正確には作り話だ。そもそもそんな噂すら知らなかったのだし。
「君は、人間の下で、働いているんだろう?」
小さく頷く俺。
「ふふ、確かに驚いただろうね。ここの職場では人間だとか泥人形だとか、差別はないのさ。実力主義ってやつだ。でも、まだまだ、管理職の泥人形は、少数派さ」
なるほど、こりゃ、アキホに軽蔑されるわけだ。偉い、という言葉にビンビンに反応している。
「知らないと思って、他所の人騙してんじゃないわよ!」
突如、アキホがキレた。
「騙すも何も、事実じゃないか!」
アキホの兄の顔が、紅潮した、ように見えた。
だがそんなはずがない。泥人形が顔を赤らめるなんて、皮膚の構造上ありえない。
「だからさ、この土地の泥人形より、どこからか流れてきた、浮浪者みたいなさ、人間の最底辺労働者の方が、人件費が安上がりだってだけの話でしょ! 何いい気になってんのよ、恥ずかしい!」
俺は初めて、まじまじとアキホの兄の顔を見た。
男のくせに、うっすらと化粧をしている。
だから顔の色艶も良く、頬に赤みさえさして見えるのだ。
人間になりたい泥人形、か。なるほど。
「もう行きましょ」
そう言って、我慢の限界に達したらしいアキホは俺を従え、勝手にドアの鍵も開けて、大股で歩き去る。
アキホの兄は追ってこない。帰っていい、ということなんだろう。
そんなんでいいのか? とも思うが、俺たちは泥棒でもなければテロリストでもない、それだけは判明したから、とっとと帰ればそれでいいんだろう。
つまりただの兄妹喧嘩だったわけだから。
アキホもきっと、見つかった場合にこういう風に有耶無耶にすませられるように、わざわざ自分の兄のいる現場に俺を連れてきたんだろう。
あるいは、最初から石をぶつけるつもりだったのかしれないが。
俺たちは、ちゃんと台車も回収し、何食わぬ顔で門を出た。
さすがに守衛は何か言いたげな、複雑な表情だった。
アキホはまだ怒っているようだったが、俺が礼を言うと笑って冗談を返した。
だが、俺たち二人の間には、何とも言い難いわだかまりが残ったように感じられた。
後になって思えば、あの帰り道、アキホの軽自動車に乗せてもらっている最中、アキホの方から「ねえ、私の兄の事、どう思った?」と一言尋ねれば良かったのだ。
そうしたら俺は、アキホが兄貴に抱いている感情と同じことを言っていたはずなのだ。
そしてそれは、偽らざる気持ちだった。
そう尋ねられれば、俺は言葉を選びながら率直な感想を述べ、アキホとさらに意気投合し、もう一晩素敵な夜を過ごすことすら可能だったかもしれないのである。
解決できない鬱屈を胸に抱えたままだとしても、それでもきっと、とても楽しかったに違いないのに。
しかしアキホは、さすがに、昨夜知り合った旅行者に兄貴を罵られるのは、気がすすまなかったのかもしれない。
だから無意識にその質問を避けた。
俺の方も、アキホが尋ねないのに、アキホの兄の悪口を自分から切り出すのはどうかと思ったので、言わなかった。
俺はしらずしらず、アキホの兄のことを喋る代わりに、自分の心のモヤモヤを、アキホに喋っていた。
「……俺が知りたかったのは、こんなことだったのかな。分からなくなってきた」
本心だった。裏切られたような悲しみと、頼りない薄っぺらい納得が渦を巻いていた。
「知りたかったこと、って?」
そういえば、俺がピラミッドのフェンスの中を見たがった理由を、アキホに未だ話していなかった。
俺は結局、泥人形が機能的にキビキビと奴隷労働に服している様を想像していた。
人間の技術者や現場監督の下で、黙々と肉体労働や単純作業に従事する泥人形。
そしてそれが、泥人形が生まれてきた意味なのかもしれない、と期待に似た気持ちすら抱いていた。
俺が育った田舎町では、そしてこのピラミッドのふもとの町でも、泥人形は泥人形だけで呑気に暮らしている。
一方首都では、大勢の泥人形がさらに大勢の人間に交じり、細々と静かに生きている。
中には人間に憧れ、人間になりきろうとするアキホの兄みたいな奴もいるが、少なくとも俺はそんなタイプではない。
労働人形。
自分がそれに他ならないのなら、都会の虚無にまみれた、無味乾燥な労働者生活にだって納得がいくのではないか。
つまり、奴隷労働のお手本を見たかった、俺は内心、そこまで思っていたのかもしれなかった……。
そんなことを、しばらく考えていた。
アキホをほったらかしにするつもりなどなかったけれど、結構長い時間黙りこくっていたんじゃないかと思う。
アキホは、俺が口を開くのを待っていたのだろう。
でも、結局アキホが先に言葉を発した。
「あんたさあ、さっきの話、気になってたんでしょ?」
「え? さっきの話、って?」
「だからさ、人間と泥人形と、どっちが偉いか、とか」
え?
「都会じゃ、そりゃあ、辛い目にも遭ったでしょう。人間に見下されたりするんでしょう? 私はよく知らないけどさ。でも、だからって……」
え? え?
「私ね、泥人形は泥人形、人間は人間だと思うの。そもそも別物なんだから、ひがんだりしても、しょうがないじゃないの」
さすがに俺は、とんでもない誤解だ、と言おうとした。
だが、アキホの声があまりにも冷たかったので、一瞬躊躇してしまった。
気をとり直して口を開こうとしたら、アキホの足が、ブレーキを踏んだ。
「はい、駅に到着よ。私の兄さんみたいにならないで。さよなら、お元気でね」
9 母と話す
失意のまま実家に帰り、母に帰宅を告げ、母の作った食事を食べる。
いきなりプイといなくなり、翌日フラリと帰ってきても許される年齢、なんてものはない。
当然気まずいし、申し訳ない気持ちもある。せめてもの罪滅ぼし、ではないが、食事を、できるだけ旨そうに全部平らげる。
長旅からようやくこの家に到着して、あー疲れた、などとふんぞり返っていた時と比べて、今は若干、萎縮し行儀良くなっているのが、自分でも分かる。
昔からいつものことではあるが、母の機嫌の良し悪しは、全然読み取れない。実の息子だというのに。
「母さん、昨日の夜、電話できなくてごめんな。飲み過ぎてそのまま、知り合いの店でつぶれちまってね」
まあ、大嘘ではない。
母は、そんな俺の様子には無関心に見えたのに、唐突に言った。
「二日酔いが、つらいのかいね」
そんなことを言われるとは、意外だった。
実際、体は、全然つらくないのだ。たいして疲れてもいない。しかし……。
「何で急に、そんなこと」
「あんた、ため息ばっかりついてるでしょうが」
そうかい? まあ、そうなんだろうな。
顔にも出てるんだろう。だって、ニコニコしてろって方が無理だ。
親に心配をかけず、我が息子はハッピーだと思い込ませるのも親孝行かもしれないが、親を騙す息子、子供に嘘をつかれる親ってのも、よろしくはないんじゃないか。
俺はこんな時。どんな顔をするべきだったのかな……。
そんなことをモヤモヤと考えながら、返事をしなかった。
「それからね、あんた」
母の語調が強くなり、子供に説教するような顔になる。何だろう?
「自分の足元をね、憎々しげに睨むの、やめなさい。そう。それよ! そういう顔しているとね、誰も助けてくれなくなるよ。人が離れていくのよ」
なんだか、俺は泣きたくなった。
「首都で、何か嫌なことでもあるの?」
そういう風に、いかにも母親という立場で母に問い詰められると、いつも俺は勝てない。
誤魔化したりはぐらかしたりはしても、嘘はつけなくなるのだ。撤退戦みたいなものだ。
ましてや今回は、精神的にかなり消耗していたので、自白する方が楽な気がした。
「あるといえば、ある。だけど、いまさら、どうこうできることでもないよ」
「それにさ、あんた、帰って来てからも、なにか嫌なことがあったんでしょう?」
俺は観念した。もう降参しよう、と思った。
「あのな、母さん……」
母が湯呑みに茶を注いだ。
「俺……、最近悩んでるんだよ。そもそもさ、泥人形って、何だと思う?
なんで、この国には、人間と泥人形と、二種類いるんだ? 俺、それがずっと分からなくてさ」
母は、目を丸くした。
下らないことに悩んでるんだねえ、と聞き流される、呆れられる、馬鹿にされる、そのいずれかなら、分かる。
だが、母が驚いている意味が、俺には分からなくて、俺も内心驚いている。
「あんた、知ってるでしょうが」
ん?
「だって、お父さんが、あんたが小学生の頃、教えてくれたでしょう? まさか忘れたのかね」
「何のことだか、分かんねえよ」
「ほら、泥の湯の、話」
泥の湯の話、ってあれか。
むかーしむかし、あるところに、って感じの昔話か。それなら、確かに、小さい頃、親父から聞かされたことがある。
「憶えてるよ、憶えてるけどさ、それ、今の俺の話と、何か関係あるか?」
……むかしな、人間たちが集まってな、井戸を掘ろうとして、深い深い穴を掘ってたんだわ……。そしたらな、掘った場所が、悪かったんだろうな、その穴から、水じゃなくて、泥の湯が吹き出したんだ……。
そこにいた人間たちは、その泥水を被ると、たちまちみんな、泥人形になってしまった。つやつやプクプクしていた肌は、乾くとヒビ割れ欠片が剥れ落ちる、不便な体になり代わった。
慌てて井戸を塞いだが、もう遅い。一旦開いた穴は塞ぐことができなかった。
塞いでも塞いでも、井戸の周りのあちらこちらから泥の湯が湧き出して、泥の湯気を吸ったそのあたりの人間は、全員泥人形になってしまったんだとさ……。
オチもなければ教訓もよく分からない、へんてこな昔話だと思っていた。
酔って饒舌になっていた父は、熱心に聞いている息子に、さらにこんなことも言っていた。
……この話はな、言いふらしちゃ、いけないぞ。こんな話をしているところを人間に知られたら、すり潰されて砂ツブにされて海に撒かれるんだぞ……がっはっは……
「泥の湯の話が、どうしたっていうの、浦島太郎とかと同じだろう?」
「何言ってんの、あれ、本当の話だよ」
「いやいやいやいや、全部、ただの昔話だろう? この地方の泥人形に伝わる民話だろう? 少なくとも俺は、ずっとそう信じてたけど」
「何言ってんのよ、あんた。あの話が嘘なら、何でずっと、ピラミッド作ってるのよ」
そこまで言うと、母は急にテキパキと、皿や碗を全部盆に乗せ、俺に背を向けて流し台に向かった。
これ以上俺と話をするのが面倒になった、というわけではなく、母の中では、ここで一連の会話がめでたく完了した、ということのようだ。
客観的には終わっていようが終わっていまいが、当人が終わりだと思ったら終わりなのだ。
俺はもっと食い下がりたかったが、母との会話をこれ以上継続することの不可能さも、これまでの長い付き合いから、よく分かっていた。
そして、この家の外でこれ以上嗅ぎ回ると、俺は海に漂う砂ツブとなるらしい。
なぜ、泥人形なんてものが存在するようになったのか。
母の言うことが正しいならば、原因はあっても理由なんて無いのかもしれない。
線路脇の石っころが、存在理由など持たず、ただ在り続けるように。
そして、なぜピラミッドを作るのか、本当の理由も、分かるようで、結局よく分からない。
地下に眠る巨大なエネルギーの平和利用のためなのか、それとも国中の人間が泥人形にならないように、汚染の拡散を防止するためなのか……。
いやいや、よく考えなおせば、母が、本当の話だと言っているだけだ。それだけだ。
やっぱりあれは、ただのデタラメな民話なんじゃないのか……???
もういいや。
俺の泥でできた頭蓋骨の中で、俺の声が響いた。
なんだか、母にまで、うちのめされた気がした。
朝のうちから、アキホの兄貴の生き方にうちのめされ、アキホの誤解にうちのめされ、まるで、うちのめされるため用意された一日のようだ。
いや、この帰郷の旅自体が、うちのめされるための旅のようだ。
死ねよ、もう。
俺は、母に聞こえぬ程度の小声でそう呟いて、泥のような眠りに落ちた。
10 首都に帰る
その翌朝、母は俺に言った。
「あんた、イビキかくようになったのね」
多分それは、俺の嗚咽だった。
女にふられて泣いていたわけじゃない。
それも半分ぐらいは理由かもしれないが。
それだけじゃない。いろいろなことを布団の中で思い返し、考えたりしているうち、情けないことに涙が止まらなくなったのだ。
冒険をしようが恋に破れようが、いい歳をして枕を濡らしていようが、時間は過ぎる。
これから、来た道をそのまま逆に辿る、うんざりする長旅を、またこなさねばならない。
いろいろ納得し、いろいろ諦め、いろいろ傷ついて、一人の泥人形は首都に戻る。
今の住みかである首都では、新たな、味気ない労働の日々が、手招きをして待っている。
(2014年 7月 kindle にて発表)