蝋でできた人形は蝋人形
藁でできた人形は藁人形
海でできた人形は……
海人形、という言葉が人々の口にのぼるようになったのがいつからなのか、その町の誰にも分からなかった。
安江(やすえ)はその言葉を、まだ小学生の弟から聞いた。夕食の出来上がりを待つ茶の間でのことだった。テレビを見ていた弟の健太が唐突に、そしてつまらなそうに、声を上げた。
「姉ちゃん、うみにんぎょう、って何ー?」
うみにんぎょう? 海人形? 産み人形? 安江は首を傾げた。
「何それ? 誰から聞いたの?」
少なくとも今テレビはそんな言葉を発していない。
「……分かんない」
健太は、もう会話に興味を失ってアニメ番組に目を戻している。安江も空腹に耐えかねて、母を手伝おうと腰を上げた。厨房の扉を開けた途端、揚げ物のいい匂いが安江を包んだ。
翌朝、安江が中学校の教室のいつもの席に着くと、仲良しの爽子(そうこ)が声をかけてきた。
「ねえ安江、海人形って何なんだろ?」
安江は昨日の健太との会話もほとんど忘れかけていたので、えっ? と訊き返した。
「安江は知らないの? 最近あちこちで聞くじゃない」
「うーん、そう言えば私も聞いたことあるけど……、うみ、って、海だよね? 魚のいる」
「そうじゃないの」
「でもさ、意味分かんないよね」
安江は、意味分かんない、と言ってから、しばし想像力を働かせてみた。
「やっぱさ、それって水着の人形なのかな?」
今度は爽子が、えっ? と訊き返す番だった。
「浮き輪とかがアクセサリーでついててさ……、あれ? でもそれじゃただの海水浴人形だよねえ……」
安江はまた少し考え込んだ。
「そうだ、きっとその人形、潮の香りとかするんだよ。その人形から波の音が聞こえてきたりして。部屋に置いておくだけで、海に行きたくなってウキウキしてくるような、そんな人形」
そこまで捲し立てた安江がふと爽子の目を見る。普段は大人びた雰囲気の爽子だったが、今は珍しく笑っていた。
「やっぱり安江は面白いこと考えつくよねえ。私ね、全然違うの想像してた」
「違うのって、どんなの?」
「静かな海のずっと沖の方にね、そうね、きっと小さな日本人形みたいなのが、一つだけポツンと浮かんでるの。その周りには何にもないの。一面、どこまでも海」
「え、ちょっと怖い……」
安江は爽子を見た。自然と声のトーンが下がる。
「……幽霊なの?」
「いや、だから人形なんだってば」
「じゃあさ、なんでそんなところに人形が浮かんでんのよ」
「さあ? 海で死んだ人の形見、とか?」
「怖すぎだって」
「じゃあ、海の安全とか、大漁とかのシンボルの、人間の味方の人形」
「やっぱり怖いって。爽子ちゃんの発想が怖い」
「うん……、私初めて海人形って言葉聞いた時、ちょっと怖いなって思ったもん」
「誰から聞いたの?」
「こないだ、亜紀(あき)たちが喋ってるのが聞こえた。私は本読んでたから何の話だかも分かんないんだけど、その海人形って言葉だけが耳に残って」
「ふーん」
安江は教室を見回して亜紀を探したが、バレー部の朝練でこの時間にはいないことを思い出した。
放課後、寄り道の計画をあれこれと話し合いながら安江と爽子が校門を出ると、小さな子供を連れた若い母親が目に留まった。子供は何かぐずっているようだった。安江と爽子がそのそばを通り過ぎた時、母親の声が聞こえた。
「なんでママの言うこと聞けないの! わがまま言ってると海人形がやってきて、悪い子を海に連れてっちゃうんだからね。嫌でしょ、だったらママの言うこと聞いてったら」
安江と爽子は、顔を見合わせた。
その数日後の平凡な昼下がりのことだった。その町の海のやや沖合で、海水が不自然に渦を巻き、クラゲのように、あるいは霧に映る人影のように曖昧な輪郭の、人の形の塊が出来上がった。
とはいえ、海水から出来上がったそれは海水と同じく全くの無色透明だったが、魚たちは不穏な気配を感じとり、一目散に逃げ出していった。海人形は全く心も意志も持ち合わせていなかったが、体の中で見えない歯車が回っているかのように、勤勉に、ゆっくりと、陸(おか)を目指して移動を始めた。
海人形は黙々と海底を歩き続けた。陸はもうすぐそこだった。やがて海人形の頭部が海面から、ポコリと姿を現した。町の人間はたまたま誰もその瞬間を目撃しなかったが、仮に見ていたとしてもしばらくは、海の色に溶け込んだ海人形の存在に気づくことは難しかっただろう。しばらくは、すなわち、逃げ遅れるに充分な時間は。
最初に顔を出した海人形の隣で、すぐ後ろで、ポコリ、ポコリと第二、第三の海人形が次々顔を覗かせた。海人形は一体ではなかった。何万何十万という海人形が同時に誕生していた。材料は、そこに、無尽蔵にあった。そして海人形は巨大だった。体高はいずれも数十メートルはあった。
じきに海原は、肩を、上半身を、海面より上に露出させた海人形で埋め尽くされた。それらは皆互いに無関心で、唯一の使命を抱いた巡礼者のように一様に、規則的な速度で陸を目指してさらなる歩を進めた。
港が、海水浴場が、奇岩の名勝として知られる岸壁が、海沿いのハイウェイが、次々に海人形に踏み潰されていった。海にほど近い学校や商店や様々なビルや車が蹂躙され、海人形の体に飲まれていった。海人形は大量の海水をその体中から吹き出しながら進軍を続けた。安江も爽子も健太も安江と爽子のクラスメイトも、幼児も母親も、安江の家族も家も学校も、皆一様に、溺れ潰れ流された。海人形たちは傍若無人に海岸線から何キロも何十キロも奥の内陸部まで侵入し、最後には勝手気ままなタイミングで自壊して、ただの膨大な海水の奔流に戻った。
逃げ惑い泣き叫び溺れ死にゆくその町の人々は知るべくもなかったが、海人形が上陸したのはその町だけではなかった。その町の隣の町も、さらにその隣の町も、海に面した地域はどこも平等に海人形に襲われた。細長いその国の東の半分は軒並み海人形に踏みにじられ齧り取られ、細長い国土はさらに細くなった。無事だった地域の人々は報道を見て、皆一様に恐れ慄いた。皆一様に、人形のように表情を失っていた。
(2012年 2月)
私は自分の作品を、純粋なホラーとして構築し提示したいと願っている。
作品の面白さのため最大限の効果を追求すること、これだけが私の、 ストーリーの選択根拠である。
ただ純粋に、展開と結末をああでもないこうでもないと考えぬいた末に本作のような問題含みかもしれない作品が出来上がってしまうこともある。
杉崎淳はこのような作品を書く奴なのだ、ということをまずは知っていただきたく、本作を私のインターネット上での発表第一作とします。