盗国譚




「……ゴルギアスよ」

 疲弊と悲嘆と苦悩と憔悴との極みにあるカッサンドロスは、一族の広大な墓所の中心で声を発した。
 無慈悲な冷たい風が、夜闇と青白い墓石群の間を吹き抜けた。
 最後の力を振り絞ったはずだったが、老いたカッサンドロスの喉からは、当の本人が驚くほどに弱々しい、消え入りそうな声量が漏れ出るのみであった。

「ゴルギアスよ、そなたは如何(いか)なる手を講じても、国外に逃れねばならぬ。
 今から語る真実を、国外の人々に、そして後世に、必ずや語り継ぐのだ」

 まだ顎髭も生えぬ寵童ゴルギアスは、真剣な顔で大きく頷いた。

「誉れあるアルゲアス朝マケドニアが丸ごと盗まれた顛末を、ゴルギアス、そなたに語り伝えよう。
 残された時間は少ない。この我が身もすぐに、彼奴(きゃつ)らの手にかかるであろうから」

「もう終わりだ。もうこの国は、終わってしまった。
 偉大なる覇王も我ら臣民も、千年王国の栄華を夢見たが、これも神の意志か、儚くもここに破滅の日を迎えてしまった。
 統一国家としてのアルゲアス朝マケドニアは、一代の栄華を謳歌したのみであった。
 ……いや、想像するだにおぞましきことだが、この国は、今後も何食わぬ顔で、アルゲアス朝として存続するのかもしれない。
 しかしゴルギアスよ、騙されてはならぬ。
 たとえ新王が、我らが昨日まで王子殿下としてお慕い申し上げていた、あのお方の顔をしていても、だ。
 そして実際にその御体に、我らが覇王ピリッポス2世陛下の血が流れていても、だ。
 それでも。それでもだ。
 もはやこれまでの王家は絶え、我らが国土マケドニアは、乗っ取られたのだ。

 そのように、肝に銘じねばならぬ。ゆめゆめ騙されてはならぬ。

 これが国境の山脈の向こうから襲い来る異民族の襲撃なら、我ら臣民は千の盾、万の槍となって、命惜しみもせず戦ったのだ。
 しかし、敵は、内側にいた。
 内側の異物に対し、我らの軍はおろか、王の一番近くにいた我々家臣団ですらが、為す術(すべ)を持たなかったのだ……」




 
 発端は、明らかに、畏れ多くも、我らが王の失策であった。
 我らが王ピリッポス2世陛下は、「“あの一族”を滅せよ」と、我々家臣団に命じた。
 それが、国の死へと至る、最初にして唯一の誤りであった。



 バクトリアイ一族は、流浪の一族にして闇の一族であった。
 当主である族長21世ダアイ・バクトリアイを頂点に、鉄の掟と血の結束を誇る。
 族長が死を命じれば、4歳の幼子であれど喜んで命を差し出す。
 一族は、全体で一匹の蛸(たこ)のようなものだ。ヌラリヌラリと形を定めず、その触手の一本一本に猛毒を持っている。

 そもそもその一族の名、それ自体が、本来の名ではない。
 バクトリアあたりから来た連中、という意味しかない誇り無き名で呼ばれ、それを気に病む様子もない。
 彼奴らは、本当の名前すらも知られていない、そのような集団だということだ。 



 アルゲアス朝のマケドニア統一は、実は、バクトリアイ一族を欠いては、ありえなかったかもしれぬ。
 それは、知らぬ者無きピリッポス2世陛下の覇業であったが、同時にバクトリアイ一族の暗躍の歴史でもあった。



 バクトリアイ一族は闇の存在ではあったが、本質的に、影の存在ではなかった。
 50年の永きに渡って当主であり続ける、当代ダアイ・バクトリアイの意向であろうか。
 彼奴らは事あるごとに、暗然たる存在感を天下に示すことを忘れなかった。

 若きピリッポス2世を悩ませ苦しめる周辺諸侯のうち、数にして十を下らぬ豪傑たちが怪死をした。
 或る人物の死骸は背丈の何十倍もある大木の一番上に吊るされ鳥についばまれ、また或る人物の死骸は神殿の礼拝堂の祭壇の上に、八つ裂きにされた形で発見された。
 いずれも天魔の所業と噂されたが、バクトリアイ一族の存在を知る各国王侯、将軍、軍師たちにとっては、何者の仕業かは一目瞭然であった。
 彼奴らの本業は間諜と暗殺であったが、その気になれば誘拐と拷問にも一族伝来の不可思議な秘術を駆使し、仕損じることなど決して無かった。



 マケドニア統一を成し遂げたピリッポス2世陛下と、当時から現在に至りバクトリアイ一族当主であるダアイとの関係は、表向き良好であった。
 バクトリアイ一族は、我ら臣民と変わることなく、王と王朝に忠誠を誓っていた。
 だが、王の側では……。
 陛下のおん御心(みこころ)など吾輩ごときには判らぬ。最近の心変わりのようにも見受けられるが、王は案外、あの薄気味悪い得体のしれぬ彼奴らを、早い時期から嫌っておられたかもしれぬ。
 きっとそうにちがいない、とも思える。

 しかしいずれにしても長年の間、王は彼奴らを切り離すことはしなかった。できなかったのかもしれぬ。
 それほどに、彼奴らの力は、表には決して出ないままに、強大であった。



 こういう出来事があった。

 ピリッポス2世陛下が幼少のやんちゃ盛りの王子であられた頃のことだ。
 王子は、父君である先王アミュンタス3世陛下の飼っていた軍鷹(ぐんおう)をからかい、逆にその猛々しさに威圧され、泣き出してしまった。
 若き日の吾輩を含む家臣団は、王子殿下を慰めあやすのが関の山で、どうすることもできなかった。相手は王の鷹である。
 癇癪(かんしゃく)をおこした殿下は叫んだ。
「ダアイ! いるのだろう? ダアイ! どこだ?」
 どこからか音も立てずに現われたダアイ・バクトリアイは、王子の前に跪(ひざまず)いた。
「殿下、ダアイならば、ここに」
 殿下は命じた。
「ダアイ、あの鷹を懲らしめよ。あ奴はこの王子に、許し難い無礼な態度をとるのだ」
 ダアイは、軍鷹と、遠くの玉座で将軍に指示を出している父王とを、チラリと見た。
 王は執務に没頭し、王子の泣き声やわがままに耳を貸す余裕など持ち合わせてはいないようだった。
 ダアイは、あるかなしかの薄笑いを浮かべ、深く頭を垂れた。
「御意に」

 ダアイは、その位置から決して動かなかったように見えた。しかし、王の鷹に何らかの術を施したのは間違いない。
 その命令をダアイが受け取ったその瞬間から、鷹は、王子の前でだけ家猫のように従順となった。
 絶対に暴れず、たとえ王子に目を突かれても反撃をしなかった。
 それでいて、先王の前ではそれまで通りの威厳を誇示し、王の狩りにも変わらず随行して活躍した。

 だが、ある狩場でのこと、聡明なる先王は、何かに気づいて鷹の顔をまじまじと見つめた。
「朕の鷹は、いつの間にか、死んでいるではないか!」
 そのように仰せられた王は、即座に鷹の首を刎ねてしまわれた。

 この事件に関連して、ダアイが罰せられることは、ついになかった。
 歳若きピリッポス2世王は、この後永らく、ダアイ・バクトリアイを重用し、利用し続けることとなる。



 時が流れれば人の心も変わる。
 何がきっかけだったのかは分からぬ。
 おそらくは、戦場でいつの頃からか王に芽吹き、長年御心の内に温めておられた深慮であったのだろう。
 マケドニアの統一、という覇業をようやく成し遂げた今の天下泰平の我が国において、もはやバクトリアイ一族の存在は脅威にしかならぬ。
 姦計と血と死の臭いがまとわりつく、卑しく忌まわしい連中と、ついに手を切るべき時が来た。
 ピリッポス2世陛下は思い立った。この思いを公言されたのは、つい先日のことである。

 それが、敗北と滅亡の道の端緒であった。


 
 宮廷の奥で内密にバクトリアイ一族の討伐計画が進められているその最中(さなか)、我らが光、次代の王となるべき第一王子が、何者かに誘拐された。
 王子殿下は、多くの部下と衛兵がひしめく王宮から、陽だまりの水が蒸発するように、忽然と失踪したのだ。
 鬼神の手によってしか成し遂げられぬような、不可解な手口であった。
 その憎き下手人については、誰もが思い当る人物がいたが、誰も何の証拠も持ち合わせてはいなかった。



 王子の失踪の翌朝、ピリッポス2世陛下は緊急の御前会議の場でダアイを呼ばれた。ダアイの名を怒鳴り散らした。
「ダアイ! いるのであろう? ダアイ! どこであるか?」 と。
 家臣の誰もが、まさか今も王宮にダアイが留まっており、しかもこの場に白々しくも顔を見せるなど、ありえないことだと思った。
 家臣の誰もが間違っていた。
 あの男は、王の呼びかけに応じ、姿を現したのだ。
  
 当然のことであるが、ダアイは卑しい身であるから家臣団に名を連ねてはいない。
 しかしダアイは、いついかなる時でも王に呼ばれれば現われる。
 虚空から現れるとか石畳の床から湧くとか、そんな魔術を用いるのでもない。
 柱の影や、家臣と家臣の間から、ただ、静かに現われるのだ。最初からそこにいたかのように。
 何度そのようなことがあっても、家臣の誰も、ダアイがいつからそこにいたのか分からないのだった。

 この時もダアイは、吾輩の背後から現れた。
 驚きと恐怖に私の背筋を冷たい汗が流れたが、それでいてダアイはずっと吾輩の後ろに立っていたようにしか思えないのだった。

10

 王は問うた。
「ダアイよ、王子の行方を知らぬか?」
 ダアイは答えた。
「畏れながら、存じ上げませぬ」
 ダアイは王の前にひれ伏し、決して顔を上げなかったが、その歳を重ねても衰えぬ魔人の眼光を、吾輩は見逃さなかった。

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 王は、内心の怯えを、顔に出すことはなかった。威厳を保たれたまま、ダアイにこう言い放った。
「賊を探索せよ! 一昼夜のうちに、王子を無傷のまま奪還せよ! それが為し得なかったならば、朕は王の名において、全てはバクトリアイ一族の仕業と断じ、汝ら一族を根絶しにする」
「お言葉ですが、あまりにご無体な」
 ダアイは、口頭で狼狽(うろた)えたが、その眼は依然、強い光を保っていた。深淵を見据える行者のように、果てしなく落ち着いていた。

「ハッ!」
 王は嘲り笑った。
「よいな。ここに、この玉座の前に、王子を連れてまいれ。必ずだ。朕が汝に命ずるは、ただそれのみである」

12

 はたして約束の時、王座の前に、無傷で着衣の乱れも無い、失踪した時と同じ姿の王子の御姿があった。
 救出に尽力した、ということになっているはずのダアイは、どこにも見当たらなかった。
 王子は当惑した様子も混乱した様子も見せず、普段通りに、ただ無言で片膝をついて王のお出ましを待っていた。

 王は一報を受け、奥の間より玉座に現われた。息を切らしていた。
 王は、今度こそ、安堵と喜びの表情を隠そうとはされなかった。
 王子は、顔を上げた。

 言葉に詰まる父王よりも先に口を開き、開口一番、こう言った。

「御命令通リ、王子殿下ヲ、救出シテマイリマシタ」

 王子の声とは似ても似つかぬ声であった。そしてそれは、王子の発すべき言葉ですらなかった。
 家臣団は誰もがその声と口調を、魔人ダアイ・バクトリアイのものであると認めた。
 わざと分かるように言ったに違いなかった。

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 その王子の口から出た言葉を受け、王は動揺もせず、静かに答えた。
 直前とはうって変わって落ち着き払った表情であった。

「王子ヨ、ヨクゾ無事デ戻ッテキテクレタ。ナニヨリデアル」

 この驚天動地の出来事に気を失わんばかりの我ら家臣一同をぐるりと見回すと、王は再び王子を見下ろした。
 そして、はっきりとこう宣言したのだ。

「朕ハ、コレヨリタダチニ入滅スル。今コノ時ヨリ我ガ領土ト軍ノ全テハ、第一王子アレクサンドロス3世、ソナタノ物デアル」
 王は、宝刀で喉を突いた。

 かくして、吾輩が一生を捧げたアルゲアス朝マケドニアは、脆(もろ)くも滅びた。

14

「ゴルギアスよ」
 カッサンドロスは重い息をついた。
「この一昼夜の大混乱の、王宮の外には漏れ出ていなかった真相とは、以上だ」

 ゴルギアスは、静かに頷いた。
 カッサンドロスは、許しを請うかのように、ゴルギアスの真っ青な瞳を見つめた。
「吾輩は、剣を取り戦うことすらできなかった。老いたりといえども、王の敵が堂々と襲いかかってくるなら、何十人でも切り伏せてくれるというのに……。
 だがゴルギアスよ、王宮が丸ごと妖術の手に落ちた今、誰と戦えばよいのだ?
 王も王子もダアイの声で語り始める。衛兵も、将軍もだ。私の屋敷に逃げ帰れば、召使も妻も側室も子も孫も……」

 こんな折でもゴルギアスは美しい。
 カッサンドロスは、ゴルギアスの白い小造りの顔を両手で包み、優しく撫でた。
 もともとは奴隷市のセリで一番人気を博した絶世の美童であった。
 王宮も自宅も混乱の極みとなり、カッサンドロスはゴルギアスだけを馬の後ろに乗せ、当て所(あてど)もなく逃走し、この一族の墓所に辿り着いたのだった。

15

 若きゴルギアスは、カッサンドロスの話を無言で聞き終え、そしてここに来て初めて、口を開いた。
「ご主人様、よく分かりました。
 そして信じます。信じがたいお話ですが、私はご主人様のお言葉を信じます」
 鈴のような高く涼やかなゴルギアスの声を聞き、カッサンドロスは頷いた。
「うむ。美しきゴルギアスよ。そなただけは、生き延びよ」

 カッサンドロスはゴルギアスを抱き寄せた。

 主人の胸の中、天を仰いだゴルギアスは、再び口を開いた。
 その美しく赤い唇から、ダアイの低いしゃがれ声が溢れ出た。

「ヨク分カッタカラ、オヌシモココデ死ヌガヨイ」

 いまやゴルギアスの目は黒く濁り、手にはカッサンドロスの軍刀が握られていた。

 

(2016年 9月)