箪笥(たんす)階段


 大きな病院にしては、狭くてお粗末な階段である。
 一階から地下に降りるその階段の踊り場に、大きな箪笥があった。
 現代的な高層ビルには、ひどく不似合いである。
 品物としては、立派な箪笥だ。背は低いが、どっしりと幅広い。
 
 それは、踊り場の面積の半分ほどを占め、とても邪魔である。
 邪魔ではあるが何とか通行可能であることからして、バリケードのつもりで置かれたものではない。
 階段利用者への嫌がらせである、という推測の方が、まだ少しはもっともらしい。
 とにかく、それはそこにあった。

 入院患者Nが、けげんそうに、この箪笥の前に立っていた。
 消灯時間を過ぎており、人影は絶えている。
 昼間には無かったその箪笥は、重厚な木調で、均等に四段に仕切られている。
 つかの間、Nは少年時代の、田舎の祖父母の家を思い出した。

 Nはなんの気なしに、下から二段目を引き開けた。
 引出しの中には何も無く、ただ闇があり、覗き込むと、白い下り階段があった。
 Nは驚きつつも、さしてためらいもせず、その階段を降り始めた。
 Nは、いつ終わるともしれぬ入院生活に心底うんざりしていた。

 十五段ほど降りると踊り場があった。
 いたって普通の階段であった。
 その踊り場には、また箪笥があった。
 Nは、けげんそうに、この箪笥の前に立っていた。人影はあるはずもなかった。

 目の前の箪笥の中から声が聞こえた。
「よく来たな、干からび、ひび割れし者よ」
 Nは、引出しに伸ばしかけた手を引っ込めた。
「心押し潰されし者にしか、あの第一の箪笥は見えぬ。全てを諦めし者にしか、箪笥の中への一歩は踏みだせぬ」

 酷い言われようだ、Nは思った。
 さして反発は感じなかった。大体その通りなのだろう。
 Nは考えた。さっき入った箪笥が第一の箪笥なら、今偉そうに喋っているこいつが第二の箪笥なのか。
 この先、第三、第四、第五、第六と、無限の箪笥が俺を待っているのだろうか。

 箪笥はNの心を読んだ。
「否(いな)。箪笥は四棹(さお)だけだ。四度続けて正しい引出し、即ち、正しい階段を選べたならば、その者の望みは何でも叶うであろう」
 突如、Nの心に、永らく忘れていた希望の灯が燈った気がした。
 目の前に伸びる、箪笥で接続された階段が、明るい未来へと続く俺の道なのだ。
 
 四つの引出しのどれかを選ぶ四択の賭けに勝てば、そしてそれを四度繰り返せば、俺の難病は癒え、元の生活に戻れる。 
 それがどんな小さなチャンスであっても構わない。
 賭けを続けてやる!
 でも賭けに負けたらどうなる? いやいや。Nは考えるのをやめた。全然負ける気がしなかった。

 Nは第二の箪笥に向かって、一歩踏み出した。
 すると、Nの手が触れる前に、第二の箪笥の二段目と三段目が勝手に飛び出した。
 それらは龍の上あごと下あごに変化(へんげ)した。
 尖った牙の並ぶ真っ赤な口がバックリ開かれると、Nを一気に喰い千切った。
 
「第一の箪笥の賭けが正解だったとは、そもそも誰も言っていない……」

 引き裂かれ噛み潰され、死にゆくNの心に響く声。
 それは箪笥の声であったかN自身の声であったのか。当のNにも、もはや分からない。

(2016年 8月)