都会では


 都会では、自殺する若者が増えているという、という。
 統計的に、これは事実なのだろうか。本気のリストカットでも、薬の大量服用でも、助かった話ばかり耳にしてきた気がする。
 今日は、雨は降っていない。一週間連続の真夏日だ。夕立すらないし、台風の季節ももう少し先だろう。したがって、問題は、傘がないことではない。それどころか傘は、職場や図書館の傘立てにあふれかえっている。傘を買った記憶などもうずっとないのに、うちの玄関にも三本もある。盗んできたのではない。どこかで放置されていたものを急場しのぎに借りて帰ったのだろう、多分。

 いや、いつのまにか二本しかない。ワンルームマンションなので、情けないことに、今いるベッドの上から、玄関のドアが確認できるのだ。確認などと言うと遠くのようだが、本当のところ数メートル先の事物の配置について見えたままを述べただけだ。そもそも俺は今、なんで傘のことなど考えている? 傘の前に、何か別のことも考えていたっけ? よく思い出せないけど。

 ドアのところに透明なビニール傘が一本、紳士用の、持ち手が木調の大きな黒い傘が一本。はて、もう一本ビニール傘があったはずだが、と不思議に思うが、すぐにその行方に気づく。なんだ、見事に俺の腹に刺さっている、納得がいった、そして同時に、ああ、大変な事態だぞ。

 なぜ俺は今ベッドで正座している? 俺の尻とその下の足の裏、および、さらにその下のベッドのシーツが濡れているのは、飲み物をこぼしたからではない。失禁や下痢によるものでもない。おびただしい量の血液だ。ともすれば尿や便が混じっているかもしれないが、少なくとも大部分は、腹の傷からの出血だろう。
 なぜ俺は切腹の真似ごとをしている? いや、真似どころではない、何かを切ったりする用途に作られていないはずの傘が、どうやったらこんなに深く突き刺さるのだろう。いやいや、切ってないんだから切腹ではない。刺腹か。いやいやいやいや、そんな言葉は存在しないか。

 侵入者の仕業か? 窓もドアも鍵がかかったままだ。密室殺人か? しかし、これは何だ、俺の傍らに転がる酒瓶と、明らかに飲み残しですと言わんばかりの数錠の怪しげな白いクスリは? でもこれ、見憶えがあるな。ああ、睡眠薬だ。一番強いやつ。あれ? 俺またこのクスリ飲み始めたんだっけ? 頭をひねってみても、なぜこういう事態になったのか、ちっとも思い出せない。大量失血のためか、あるいは、酒とミンザイが俺の脳をしびれさせているのか、そのどっちかなんだろう。
 というか、しかしまあ、状況証拠から推理するに、結局のところ、これは俺が自分でやったんだろう。

 だけども、一つだけ思い出したことがある。俺の今の問題は、逢いに行かなければいけない君がいなくなったことだ。君の街に行かなくてもよくなったことだ。きっとそのことと、俺のただれた胃の上に傘があり、血液が羊水のようにベッドを濡らしていることの間には、何らかの因果関係があるんだろう。……なんだか気持ちよくなってきたな。誰かが夢の中へと、おいでおいでをしているようだ……。

 意識が本格的に朦朧としてきた。真夏だというのに、夜なのに蝉が鳴いているというのに、冷たい雨が俺の眼の中に降っているかのようだ。傘は平成の世にあふれかえっているけれど、かわりにろくでもない俺の存在は、じき無くなろうとしている。それはそれで、いいことなんだろう、多分。

(2014年 3月)