お前やな


 M市の端っこの、ひたすら駅から遠いボロアパートを借りていた頃の話だ。

 その木造アパートの俺の部屋の隣、103号室には、それはそれは汚い老婆が住んでいた。
 もしかしたらまだ五十歳とかその程度だったかもしれないが、一言で言えば老女のホームレスがなぜか屋根の下で寝ている、そんな生ける地獄のような風貌だった。
 絶対に仕事をして稼いでいるとは思えない、思うのが不可能な有様だったが、どちらかといえば小太りだった。ゴミを拾ってきて食っているとしか思えなかった。
 女の一人暮らしだというのに、たいてい部屋のドアは半開きだった。
 横目で見れば、部屋の中に家具と呼べるものはほとんどなく、そしてゴミが散らかり、極めて不潔な感じだった。

 反対の隣、101号室には対照的に、それはそれは静かなおばさんが住んでいた。
 滅茶苦茶に地味で、彼女の人生に楽しみとか喜びという言葉は存在するんだろうかと不安にさせられたが、外見的には痩せて上品な、蝋燭みたいな女性だった。
 この人もどうやら一人暮らしらしい、というのは間取りが六畳一間という触れ込みだが畳のサイズが変に小さくて実は五畳の広さしかないアパートの部屋事情が唯一の根拠なのだが、まあそれで間違いないだろう。
 103の室内ホームレス婆さんを俺は心底嫌っていたし軽蔑していたが、同時に101のおばさんも不気味で、怖くて怖くて仕方がなかった。俺が踏み込んではいけない、うすら寒い暗闇の世界の住人という感じだった。いつ見ても同じ、張り詰めた暗さを絶やすことがなかった。

 それに比べれば103の婆さんはまだ多少ましだった。少なくともシラフの時は狂っていなかった。近寄らねばさして迷惑でもない、ただの全て終わった世捨て人だった。
 しかし婆さんは、酒癖がとにかく悪かった。酒を飲むと途端に、やたら攻撃的になった。
 テレビがうるさいだとか友達や女と騒いでうるさいだとか、しばしば怒鳴り込んできた。
 婆さんがガンガンと壁を蹴り、やがてアパートの廊下に出て俺の部屋のドアを叩き始めるに及ぶと、俺はもうかんべんしてくれよとしか思えなくて、ドアも開けずに「すんません、すんません静かにします」と謝りまくっていた。二度や三度のことではなかった。分かってもらえると思うが、この手の人とまともに怒鳴り合ったり喧嘩したりするには、とても強い精神力が必要になる。だから俺は接触を最低限度に済ませたくて、いつも謝っていた。

 あの夜は、103の暴れ方がいつもよりひどかった。
 なので俺は、ドアを開け、うるさくしてすいません、と全面謝罪をしてやるしかないか、と覚悟しながら部屋を出た。実際には全くうるさくなどしていないつもりだった。いつも通りの音量でテレビを見ていただけだ。

 廊下に出た俺の目の前には、不潔極まりない103が立っていた。いつも通り臭く、ほとんど白髪の果てしなく汚い髪には、たくさんの小さなゴミがまとわりついていた。

 俺が勇気を振り絞って声を発しようとした瞬間、狭い廊下に立つ俺の横を、小さな人影がすり抜けた。音も無く扉を開け音も無く廊下に出て音も無く歩み寄った、101のおばさんだった。

 101のおばさんの右手には、大工道具の小振りなカナヅチが握られていた。
 おばさんは極めて冷静に、いや、全く無感情に、それを振り上げた。
 そして、釘を打つ部分とは反対の釘抜きの、尖って反り返った部分を、何のためらいもなく103の婆さんの頭頂部に振り下ろした。

 幸いにして101のおばさんは見るからに非力なので、俺の目の前で惨殺スプラッタシーンが展開されることにはならなかった。103は「ギャッ!」と一言悲鳴を上げただけで、殴られた頭を押さえると、血を滴らせもせずに、野生動物のように自分の部屋に逃げ込んでしまった。

 取り残された俺はというと、101にどんな表情を向けていたのかも全く思い出せない。分からない。
 振り向いた101のおばさんと、しばらく見つめ合っていたのは間違いないのだが。
 101のおばさんは、依然として作り物のように無表情だった。
 が、次の瞬間、おばさんの顔に表情が宿った。おばさんは目を見開いた。何だかわずかに嬉しそうだった。俺は心臓が止まりそうだった。
「分かったわ!」
 俺は凍りついている。このおばさんの声を初めて聴いた気がした。で、何が分かったんだろう?

 101のおばさんは、見開きすぎた目をパチパチやると、唾を飛ばしながら俺の顔面めがけて言葉をぶつけた。

「私のおしっこ止めてるンは、お前やな! あいつやのうて、お前やな!! もう、分かったわ!!」

 俺には全く分からなかった。意味が全く分からなかった……。

 ここからはベタすぎて詳しく語る必要もない。
 ものすごい恐怖にとりつかれた俺は、裸足でその場から逃げ出した。翌朝にはそのボロアパートを引き払った。ただそれだけだ。
 今になっても、あの時の101のおばさんの言葉の意味は、全く分からない。永遠に分かることはないだろう。

(2016年 8月)