ある夏の日の早朝である。
 貉(むじな)か貂(てん)か山犬か、いずれにせよ山中の獣道を駆けていたケダモノが、ストンと落とし穴に落ちた。
 突然の出来事に、何が起きたのか悟るより先に、暗い穴の底に無数に植えられた竹槍に貫かれた。
 ケダモノは腹の中に仔を宿していたが、母の胎内でそれは、母より先に死んだ。
 人間の罠にはまってしまった。そう理解できたのは、息をひきとる直前であった。竹槍には人間の臭いが染み込んでいた。


 そこに罠を仕掛ける者など、一人しかいなかった。
 その近隣に棲む者は、ただ一つの杣(そま)小屋の夫婦者と、数えで四つになる娘、それだけであった。

 どす黒いひと塊の影が、落とし穴の罠から這い出した。
 清浄な山の空気を掻き分けながら、生前と同じ速度で、影は山道を降りて行った。

 正午前、妻は、山から下りてくる夫のために昼餉の支度をしようと立ちあがった。
 その時、何やら目に見えぬ壁を通り抜けたような奇妙な心持ちがしたが、立ち眩みだろうと納得した。

 妻は納屋に干し肉を取りにいった。
 夏の暑い盛り、わんわんと蠅がたかっているが、しっかりと燻製加工がなされ、腐ってはいない。
 この細長い赤黒い肉片の一つを持ち帰り、土間のまな板に載せ、包丁代わりの鉈(なた)を振り下ろす。
 どこかで我が子のけたたましい泣き声がした。
 転んで顔でもぶつけたか、やれやれ面倒なことじゃ、この肉を刻んで鍋に放り込んだら見に行ってやらねばならない。
 干し肉からは、だくだくと真っ赤な血が噴き出していた。
 妻は我が子の事だけが気がかりで、早く調理を終わらせようと、繰り返し鉈を振り下ろした。

 夫は、家路を急いでいた。昼餉が楽しみだった。
 妻と娘と共に昼餉をとったら、今度は反対の山の獣道の罠を調べに行かねばならない。
 あと一つ坂を下れば我が家の茅葺屋根が見えるという所で、厭な気持がよぎり、足を止めた。
 しかし、じきに空腹と妻子愛しさが背を押し、夫は再び歩を進めた。

 夫は、我が家である小屋の板戸を開けた。
 妻は、押し入ってきた見知らぬ山賊と対峙し、右手の鉈に力を込め、気丈に身構えた。
 夫は、まずバラバラになり血の海に沈む我が子の変わり果てた姿を見、そして次に、その奥で目を光らせる大きな山猿の姿を見た。
 
 短い時間が過ぎたのち、夫と妻は息をひきとる直前に、何者かの罠にはまったことを理解した。
 小屋の中には血の臭いと共に、ケダモノの強い臭いがたちこめていた。

(2016年 8月)