大東京共和国の一日




第一章 目覚め



 明け方ホテルに帰る。歩くのも面倒なほど疲れ果てていた。
 部屋に入った途端、最後の気力が尽きた音が聞こえた。
 数時間後にドロドロの睡眠から這い上がってみると、トイレで流し忘れていた小便とご対面する。
 そもそも寝る前に小便をしたかどうだか記憶に無かった。

 目が覚めた瞬間、心はまだ虚ろだ。
 さもなくば、不愉快だったり稀に楽しかったりする夢の余韻にまだ片足を突っ込んでいるものだ。
 目覚ましのアラームを止めるのと同時にセットされた時刻、つまり現在時刻を確認する。
 ここまではいつもフラットだ。
 数秒後ここ数日のしんどさが脳の記憶領域から猛スピードで読み込まれ始める。パソコン起動時の「初期設定を読み込んでいます」と同じだ。
 かくして十秒ほどでどんよりとした現実感覚の中に引き摺り込まれる。腐った目で椅子に座って煙草に火を点ける。

 俺はまだこの国に滞在せねばならないのか。



第二章 憂鬱



 そうだ。この国は酷く疲れる。郷に入っては郷に従え。逆らうことをせず、極力合わせようとする。そしてまた一つ疲れを貯め込む。
 この国大東京共和国は日本国北関東地方の山中の盆地に存在し、あろうことか国家の呼称として勝手に「東京」を名乗る。
 ありがたい由来など無く、単に厚顔無恥なのだ。東京という言葉の響きがかっこいいからそう名付けた、何か文句でもあるのかと言いたげだ。
 日本国と言語文化風俗すべて同じ。ところが住人は皆嘘吐きか屁理屈こき、あるいは両方。
 国民性は多少違えど、悪い奴もまだましな奴も日本国と同じ割合で分布している。

 俺は、日本国と同じ割合でいる嫌煙家の一人である竹枝の、これは嫌味でなく本当にハンサムな顔に、思いっきり煙を吹きかけながら言った。
「煙草と俺は似ているな」
「……どこがですかね」
「嫌われ具合がさ」
 すると竹枝の野郎は、こう返してきた。
「頭の頭皮と逃げるの逃避は似てますな」
 待てよ、まだ答え言うなよ、言ったら酷い目にあわすぞ、と睨みをきかせながら、愚かにも俺は数分考え込んだ。
 いわゆる、一本の煙草を吸い尽くす間というやつだ。
 俺はそれだけの時間をかけて最悪の答えの可能性に思い当り、竹枝を睨みつけた。
「お前、まさか」
「やっと分かりましたかな。その通りです。読み方が」
 最後まで聞かないうちに拳を奴の鼻にめり込ませた。
 言い終えるのを許さなかったのは、こいつの得意顔を絶対に見たくなかったからだ。
 いともたやすく暴力を実行に移せたのは、この国では日本人は治外法権だからだ。



第三章 熱狂



 竹枝を部屋から叩き出しテレビをつけた。偉大なる共和国総統の朝の定例演説だ。すべてのチャンネルで中継している。

   我々の目指す最後の目的地は、公園のトイレの臭いに包まれている!

 怒号のような歓声、指笛。

   君の頭のまだら禿げは、恒星間宇宙船の設計図である!

 またしても大歓声、地鳴り、熱狂。テレビカメラは総統と聴衆を交互に映す。

   降り注ぐ蒟蒻ゼリーの雨は、筋肉痛の特効薬である!

 総統の声は凛々しく力強い。全身を軍服に包み、大きな帽子で顔はよく見えない。

   総ての人類が偏頭痛から解放される時、グレープフルーツは本当の色を取り戻す!

   捨てられた毛ガニの甲羅は、我々の敵と味方とを選別する!

 今朝は食い物のネタが多いな。俺は煙草に火をつける。

   毎日五回の自慰行為は、大地に緑を取り戻す鍵となる!

   深夜無意味に叫ぶ若者よ壮年よ老人たちよ、私の肛門周囲の黒ずみを今一度崇拝せよ!

   絞められた頸動脈が脳に送る最後の血の一滴は、小便の最後の一滴を絞り出す役に立つのみである!

   数学は人類と百足との共通言語である! 而(しこう)して栃木弁は全宇宙の共通言語である!

   果汁ゼロ%のメロン味アイスバーを、我等の国民食とせよ!

   眠れない夜が眠れないのは、勃たない女をそれでも抱かねばならぬ日の、予行練習である!

 総統が一つアジテーションを言い切る度に大歓声が上がる。
 何万もの聴衆の野太い歓声と、強い同意を示す合いの手が官邸前広場に渦巻くが、総統が次の言葉を発するべく息を吸い込むとピタリと声がやみ完全な沈黙が発生するのは何度見ても壮観だ。
 現時点、地球上で唯一の、そして世界史上最も完成された純粋ファシズム国家の威信がここにある。
 俺は毎朝この中継を見る。何もかもが腹立たしいこの国で、この圧倒的なパワーを目にする時だけはとても愉快な気持ちになる。
 もちろん毎日総統の演説内容は変わる。毎朝新鮮な気持ちで民衆は、国家と独裁第一党と総統への絶対服従の忠誠心を新たにするのだ。
 しかしそれにしてもこの演説、一度たりとてまともに意味が通る文面を聞いたことがない。このことについては納得のゆく説明ができる。
 総統は狂人なのだ。

「うんうん、今朝もまた良いことを仰いますなあ、総統閣下は」
 竹枝がいつの間にか戻ってきていて、感動に目を潤ませている。殴られてまた鼻血を出したのだろう、漫画のように鼻の穴に丸めたティッシュを詰めている。こんな奴が、俺のこの国での上司を名乗っていると思うと本当に腹が立つ。
「この国でも蒟蒻ゼリーの雨って降るみたいだな。そんなの南アフリカぐらいのものだと思っていたがね」もちろん嫌味だ。
「ええ、降りますとも」竹枝は平然と答える。もちろん嘘だ。
「お前は前に言ったよな、総統の言葉に一切の隠喩は含まれていないって」
「もちろんです。一字一句が、平明で単刀直入で誠実なメッセージですよ」
「じゃあお前は総統の肛門を崇拝するんだな?」
 竹枝は聞こえないふりをして「さて今日のあなたの予定ですがね」と話題を変えてしまった。
 竹枝も総統のケツの穴はさすがに嫌らしい。



第四章 逮捕



 今日の午前中はこの国に来て初めてのオフだ。だが俺に自由はない。
 竹枝が今日は新宿で面白いことが起こりそうですよ。ぜひ見に行きなさい。うんそれがいい、としつこく勧めてくる。これは、逆らうと殴ろうが部屋から追い出そうが昼までずっと責め立ててくるパターンだ。
 まあそれも悪くないかと、竹枝の提案を飲んだ。
 ついて来ようとする竹枝をもう一回ぶん殴って、俺は新宿に出た。午後からは予定が詰まっていてまた夜遅くまで竹枝と行動を共にせねばならないらしい。ならば午前中の時間ぐらいは一人でいたい。

 新宿というのはもちろんこの大東京共和国内の新宿だ。
 この国は東京二十三区を完全に模しており、道の流れからビルの一つ一つまで完全にオリジナルを再現している。誰の趣味、誰の意図なのかは気持ちが悪くて知りたくもない。
 ともかくこの国の新宿も、新大久保と代々木という駅の間にあるいかがわしい街だ。
 いかがわしい街のコピーの街というのもこれまた奇妙なもので、歌舞伎町と大久保百人町の間の職安通りの韓国料理屋を、わざわざ共和国国民が切り盛りしたりしている。

 似せようとしているが細部がいろいろと違う街、というものを観光するのはなかなか楽しい。キョロキョロしながら明治通りを歩いていたら、いきなり警官に取り囲まれた。すぐさま後ろ手に手錠をかけられる。
「俺が何をしたんだよ」警官隊に怒鳴る。
「公務執行妨害だよ、デモ行進中のな」
「デモ隊ってお前……どこにいるんだそんなもんが」
「これがデモ隊でないと貴様は証明できるのか?」
 一番威張っている警官がただの通行人たちを警棒で指す。
「あのな、俺は日本国民なんだ。治外法権なんだよ」
「あっさり口を割ったな、軟弱な奴め」
 警官隊は全員、今にも笑い出しそうだ。
「俺の懐を探れ。名刺入れから竹枝っての探せ。そして電話しろ。今すぐにだ」
 俺がこういう時のために憶えておいた竹枝のクソ長い肩書を諳んじると連中は青ざめた。
 連絡を受けて竹枝がもっと青い顔をして飛んできた。竹枝が威張り散らして警官隊から俺を解放したが、殴られるのを恐れ、手錠に気づかないふりをしている。
 俺は竹枝の顔に唾を吐きかけた。



第五章 最初の落下物



「早く手錠を外せよ」と歩きながら怒鳴り続ける俺。
「まあまあ、こんな良い天気に怒っているなんて損ですぞ」と竹枝。
 明治通りと新宿通りの交差点辺りで、突然どこかのビルから人が降ってきた。
 俺たちの少し前方の車道にグシャンと叩きつけられて片腕がもげた。
 派手に血が出るもんだなというのが最初の感想だったが、明らかに変な点があることに気づいた。
 もげた腕も含め、肘から先の手が三本ある。胴体に付いたままのが一つ、肘から千切れて転がっているのが一つ、ダイレクトにアスファルトに叩きつけられ、トマトみたいに潰れてアスファルトに張り付いているのが一つ。
 掌がかろうじて形をとどめているので人間の手だと分かる。
 さらに観察すると、一つ謎の大きな血肉の塊が俺の脳内の復元パズルを妨げていて、何だろうとよく見るとどうやら元、人間の頭なのだった。
 落ちてきた人間の頭はそのすぐ近くの位置で、かろうじて胴体にくっついたまま割れている。

「おい竹枝、どういうことだよ。計算が合わんぞ。パーツが過剰だ。余る」
 竹枝は鼻で笑った。
「これだから柔軟にものを考えられない方は。余計なのはあなたの前提の一つでしょうに」
「前提が間違ってるってか。つまり」
「もう行きましょう。どうでもいいじゃないですか」
「つまり降ってきたのがちょうど人間一人分だってのが余計な前提か。この国じゃ、他人の腕と頭を抱えて飛び降り自殺するのも珍しくないのか」
 竹枝は、本当にどうでもよさそうな顔で答えた。
「別の提案もあるんですがね。降ってきたのは一人半とかじゃなく、手が三本の人一人だったってのはどうです?」
 そう言って竹枝は、足を速めた。もうずいぶん投身自殺の現場から離れてしまった。この竹枝みたいな発想でたいていのことはうまくいくから、俺はこの国もこの国の奴らも嫌いなのだ。

 

第六章 二番目の落下物



 新宿駅の駅ビルでまた飛び降りだ、と俺たちを追い抜いて野次馬が集まっていった。
 俺も後ろ手に手錠をしたまま駆けつけた。警察より先に着いて生の現場を見ることができた。
 案の定、胴体が二つ、足が三本ある。まだパーツが足りないように思えるが、また今日のうちにどこかのビルから、一人分の肉がちょっとしたオマケ付きで降ってくるんだろう。
「なあ竹枝、この国ではなんでこんなことするんだ? 何かの見せしめか? それにしたって別に方法あるだろ。なんでこんな大がかりなんだ?」
「人間ね、手と足が違う墓に入るのって嫌でしょう?」
 竹枝と一日中話していても、心が通じ合ったとか言ってることに納得がいったなんて瞬間は本当に滅多にないのだが、今回ばかりはなるほどと思った。
 そしてそれと同時にとても嫌な気分になった。こいつが、面白いことがあるから見に行けと言ったのはきっとこのネギトロだ。
 竹枝本人は興味なさそうなふりをしていたが、明らかに色鮮やかなこれを俺に見せつけたかったのだ。何らかの恫喝の意図でもあるのか、そうでなければ、ただの嫌がらせだ。
「結局さ、」
 俺は口を開きかけて、やめた。



第七章 いなくなる



 もう正午になっていた。竹枝は、さあ仕事に向かいますよ、と楽しげに言って携帯で車を呼ぶ。俺たちはすぐに到着した大袈裟な黒塗りの政府公用車に乗り込む。
「それはそうとですな」竹枝はジョークでも言いそうな軽い口調で話し始める。
「私の身分を知らないホテルマンとかね、一般人の前でならどういう態度でもいいんですけど、私の名前と身分を教えた上で、公務員の前で私の顔に唾を吐きかけるってのはねえ。次からはご遠慮願いたいですな」
 俺は鼻で笑った。
「お前にもプライドがあるってか」

 俺はこの共和国に来て竹枝と引き合わされてから、たったの一時間で初めてこいつを殴った。
 俺が自分の名を名乗った時、「これは奇遇です。私の兄の名も同じなんですよ。そのせいか、初めてお会いする気がしませんな」と満面の笑みで握手の手を放そうとしなかった。まずこの作り笑顔にイラッときた。
 次に、竹枝の長い自己紹介の中で、父が共和国の理想に強く共鳴して移住してきて以来の、二代続く熱烈な愛国者なのだという話をした。その流れで、私の父は偶然にもあなたと同じ名前なのですが、と口を滑らせたので、俺は初対面だからこそ今こいつの人となりをはっきり理解しておくべきだと思い、話を遮った。
「あなたの父上と兄上は、同じ名前なんですかね」
 竹枝は、一瞬目を泳がせたにも関わらず、俺の言葉が聞こえなかったふりをして話を続けようとした。これが記念すべき一発目の顛末だ。
 政府の高官であるこいつを殴れば晴れて解任され日本に帰れるかもという甘い期待もあった。だがこいつはそんな俺の意図を読み取っていて、
「残念ながら、日本人は治外法権ですから私に暴力をふるっても処罰の対象になりませんよ」と平然と言ってのけた。
 残念ながら本当にそうらしいというのはすぐに身に染みて分かることになる。なので、更迭の望みは捨てる代わりに腹が立ったらこいつを心おきなく殴ることにした。
 もっとも治外法権といったって何をやっても許される殿様のような権利を意味するわけじゃない。竹枝の目ん玉をえぐったり熱湯を浴びせたりして日本大使館にチクられでもしたら、普通に日本の法律で傷害罪に問われかねないわけで、問題が起きた時に証拠不十分になる程度の手加減は必要だ。

 普段からこんななので、俺は竹枝は不感症なのか被虐趣味でもあるのかと勝手に思いこんでいたふしがある。なので竹枝の今回のこのまともな抗議には、余裕があるふりはしたものの内心驚かされた。
「プライドですか。プライドねえ……。はは、それは食べられるんですか、美味しいんですかな。ただ、メンツは美味しいですな。私の地位と給与の根拠を成すものですから」
「メンツを潰したことを怒っているのか」
「いえいえいえいえ、とーんでもない!」
 こいつが芝居がかった大袈裟な物言いをする時は本当に気持ちが悪い。
 何を考えているのか分からないというだけでなく、心など入っていない空っぽ人間の、底知れない空洞を虚しく覗き込んでいる気分になる。
 竹枝は言葉を続ける。
「ただね、手間がかかるのですよ。あの警官たちがね、余計な噂をベラベラ喋って回る前に釘を刺さないといけないので」
「口を塞ぐってことか」
「まあその、今日中にもビルの屋上から降ってきたりとかね」
 ああ、やっぱりこの国の連中は頭がおかしいのだ。
「それは他人の腕を抱えて降ってくる方としてか? 抱えられる腕としてか?」
「警官隊みたいにちゃんと身分のある者は、遺書を残して五体まとめて落ちてくるのでしょうな」
「腕や足や頭は」
「先ほども言いました。一つには、ただ処刑するだけでは足らない者がそういう運命を辿ります。考えただけでも嫌ですね、他人の肉片と自分の肉片が混じるだなんて。そしてもう一つには」
「もう一つには?」
「消えたことを公にしてはいけない、かといって事情を知る者だけには確実にその者の死を知らしめなければならない、そういうケースですな。処刑したことにしてどこかに隠したということがあってはならない場合、よく人間が降ってきますなあ、誰か他の自殺者のついでに。確認したい者は見に行けばいいのです、潰れた頭が二つあるかどうかをね。そして葬儀も役所の死亡者数の統計も一人分だけ、とこれで万事始末がつきますわな。なんとも合理的なかぎりで」

 肝心なことには秘密主義を貫く竹枝が、この国のカラクリをペラペラと喋る。しかも幾分誇らしげに語る。
 暗に、先ほど唾を吐きかけた仕返しをしているのだ。この男はこの手の切り返しに長けている。ただの軽薄な馬鹿ではない。有能な男なのだ。



第八章 夫の出張の帰りを待つ新婚の妻の肉体の疼き



 俺が手錠を外せと言わなくなってぴったり三十分後に竹枝は俺の手錠を外した。
 殴ろうと思ったがやめた。
 俺たちの車の運転手が更迭されても気の毒だ。いや、それは表向きの言い訳で、竹枝への多少の気後れがあったことも否定できない。
「今日の仕事もまた、カウンセリングと意味の分からんカンファレンスか? 一体何なんだろうな、俺の臨床技術をまどろっこしいやり方で盗もうとしているようにも思えるんだが。日本国と共和国の医療技術交流はもっとフランクに遂行されてもよいと思うがね」
「今日はね、やっと本番ですよ」
「何だそりゃ。どういう意味だ」
「今まで黙ってましたがね、今日があなたの任務満了の日だということです。やっと私も家に帰れますよ。ずっとあなたのホテルの隣室に泊まり込みでしたからな。上司として、外国から招いた部下の監督という大仕事を何とか無事やり遂げられそうです。私去年娶ったばかりの妻がいましてねえ。私の家で寂しく夫を待っとるわけですよ。これが可愛い女でしてねえ……」
 こいつが俺の質問に全く答える気がないのは明らかなので、俺はこの状況にふさわしい一言だけを進呈した。
「うるさい、黙れ」



第九章 夫のみが知る新妻の特殊な性癖



 だが、竹枝が黙っていられるタイムリミットは、殴った場合で数分、口頭で沈黙を要請した場合には数十秒。
 つまり、こいつの無意味な話を聞きたくなければ、俺主導で会話を継続させる方がまだましなのだった。
「一つ訊いてもいいか竹枝」
「何でしょうか。私の妻の性癖以外なら何でも」
「さっき警官が言ってたデモって何だ? そんなのあるのか」
「はあ、あなた自らその答えを体験したと思いましたが。わざわざ痛い目を見てまで」
「というと」
「ありていに言えば、でっち上げですわな」
「でっち上げの見せしめということか。それとも警官の点数稼ぎか」
「いえいえ、我が共和国にそんな腐敗は一切存在いたしません」
「じゃあ何だよ」
「警官隊の、訓練という名目の暇つぶしでしょうな」
 まあ絶句したのは確かだが、警官どもの末路を思うと、あいつらに対する怒りも消えてしまった。
「暇つぶしって、暴徒鎮圧ごっこか? そりゃ楽しいだろうな」
「まあ、結果として藪蛇で全員の首が飛ぶ羽目になりましたが」
 そうか、どうしても気に食わない奴がいたら、そいつを殴る代わりにそいつが見ている前で竹枝をぶん殴ればいいのか。自己嫌悪で眠れなくなりそうだが。
「首が飛ぶって、比喩表現だといいんだがな」
「私はあなたと違って、しゃれた言葉遊びは得意としておりませんのでね」
 竹枝はいつもの爽やかな笑顔で微笑んだ。
 とても気持ち悪かった。



第十章 天国の扉



 午後二時前。まだ日は高い。竹枝と俺は車を降りて医療研究施設の白い建物に入った。ここに来るのは初日以来二回目だ。
「で、今日の仕事は何なんだ。そろそろ教えてくれないかな」
 この国に来てからずっと、精神科医として様々な患者を次々あてがわれては、膨大なカルテを読まされ、診察を強要され、所見やらその根拠やら何やら、夜遅くまでかかって報告させられた。報告というより半ば尋問だった。多分その患者たちの治療のためにこういうことをやらされていたんじゃない。途中で診療を打ち切られたり、当面の臨床に関することでない一般的な学術的質問を次々に浴びせられたりした。
 結局のところ俺がさせられた事の全ては、何も裏が無いとすれば、なぜ日本国から俺を呼ぶのかよく分からないような類の仕事ばかりだった。
 仕事に忙殺されるだけなら祖国ですでに慣れている。だが不愉快な連中との付き合いがとにかく苦痛だった。
 連日俺は疲れ果て、子供の頃好きだったジュースみたいに濁った色の小便をし、泥のように眠り、うっぷん晴らしに竹枝を殴った。
 その過程で、こいつらは俺について何らかの大がかりなテストか実験をしてるんだろうなと、うすうす察しがついていた。

「よろしい。実はですな、私は今あなたを抱きしめて祝福のキスを浴びせたい気分なのですよ」
「いらねえよクソ野郎。訊かれたことに答えろ。お前にとってそれが一番の苦手科目なのは知っているが」
「ふふ、選抜のための段階的テストというのは、横で見ていると実にハラハラするものですなあ」
「お前が毎日楽しそうだった理由が分かったよ。俺を見て面白がってたんだな」

 竹枝は肯定も否定もせず、いつものはぐらかしを始めた。
「こういう話があります。天国のドアの前に今一人の男が立った。男がここまで来るまでに、何人もの人が数多(あまた)の試練に敗れ脱落し、彼は最後の一人、たった一人辿り着いた男だったのです。ところがこの天国のドア、これが最後の試練だったのですよ」
「それは今の俺のことを言っているのか」
「まあ聞きなさい。ドアの前にはね、本当に小さな、座布団一枚ぐらいの地面しかないのです。一歩踏み外せば奈落です。地獄の業火です」
「じゃあどうやってそこまで歩いて行ったんだよ」
「知りませんよそんなこと。神のみぞ知る、ですな」
 まだ殴る時ではないと思い我慢した。
「で?」
「ドアにはノブが付いてましてね。男は少しだけ引いてみました。簡単にドアは開きました。開いた僅かな隙間から、煌々と天国の光と音楽が溢れ出たことでしょう。だけど足場が狭すぎてドアを完全にひっぱることができない。ドアに押し出されて狭い足場から落ちてしまうからです。ドア一枚その向こうはずっと目指してきた天国。なのにそのドア一枚が越えられない。ここで勝負に出なきゃ男じゃなりませんよねえ」
「まあ、そこにずっと立ってるわけにもいかないからな」
「そうです! そのとおり! 男は半開きになったドアを、危険を冒してでも越えることにしました。ドアノブをしっかり掴んだまま中空に身をのり出して、こうドアに掴まりながらドアをかわすようにして、何とか向こう側に移ろうと」
 竹枝はジェスチャー交じりで勝手に盛り上がっている。
「で、成功したのか」
「いえ、男が全体重をかけた瞬間、ドアは外れちゃいましてね。男はドアにしがみついたまま奈落の底へ真っ逆さま。その一部始終を見ていた神様がため息をついて言いました。ああもったいない、ここまで来たというのに。だが落ちたということは、天国に入る資格が無かったということじゃ。そういう運命ではなかったということじゃ。……このドアは押せば通れたんじゃがなあ」

 そこまで語ると竹枝は発狂したように大笑いを始め、さらに俺をイラつかせた。だがまだ殴らない。訊かねばならないことがある。
「で、俺は今日遂に、天国の扉の前に立ったわけか? これから最後の試練を受けるのか? ここで失格ならこれまでの全てはオジャンってことか?」
 竹枝は三秒ぐらいきょとんとして俺の顔を見つめていたが、また腹を抱えて笑い出した。そして止まらない笑いに邪魔されながらたどたどしく言った。
「いえいえ、もう終わってますから。あなたはすでに、適格者として認められましたから」
「はあ? じゃあ今のは何の喩えだよ?」
「喩え? 喩え、ああさっきの。いえ、あれはただ単に、私が一番好きな小噺」

 俺は渾身の力で竹枝の鳩尾(みぞおち)を蹴り上げ、革靴の大半が奴の柔らかい腹にめり込んだ。



第十一章 DECEIVER 我々を欺き利用し陰で甘い汁を吸い舌を出している者ども



 結局、俺の推測はほとんど当たっていた。
 俺はずっと試されていた。
 試すといっても能力を試されていたのかどうかも分からない。つまり、この国の奴らが俺の能力を必要としたのか、俺の肩書きによるお墨付きが欲しかったのか、もはや分からないのだが、まあどっちでもいい。
 新総統選抜役に専門家の肩書が欲しくて俺を招聘したのだとすると、案外昨日までの調査というのは、俺の言動や思想に反共和国的要素がないか、総統選抜に際して意図的に誤ったチョイスをするという反国家工作をするような不逞の輩ではないかどうか、入念に人格調査をしていただけなのかもしれない。
 だとすると馬鹿げたことだ。日本国中、いや全世界中でこの国の繁栄を願っている人間などいないのだし、この間抜けな核保有国がとっとと平和裏に消滅してくれることを全人類が希望しているのだ。

 俺はビルから落ちてくる肉にはなりたくないので、昨日まで竹枝の前以外では勤勉で職務に誠実な精神科医として行動し発言してきた。
 竹枝の前でさえ国家に対する明確な批判は注意して控えた。この国に対する悪感情を表明しないように気を配りながら、一日も早く帰国できるように祈っていた。
 とにかく、竹枝の指揮のもと、新総統を選抜するという、最重要国家機密に属する作業が進められていたのだろう。そして国外から俺を招き実務担当に据える決定がなされたのだろう。まったく名誉なことだ。
 それゆえ俺は竹枝の部下で竹枝は俺の上司という位置づけだったのだ。この時までなぜ竹枝が俺の上司をずっと名乗っているのかさっぱり分からなかったが。
 もちろん総統の首のすげ替えを決定したのは竹枝よりずっと上の国家意思決定機関なのだろう。
 これまでに何度も総統は代っているらしく、しかし共和国民は全く気づいていないか、気づいても気づかないふりをしているか、愚かにも騒ぎ立てて消されているかのいずれかなのだろう。

 もう下準備は完了しており、候補者はあらかじめ四人に絞られていた。
 時間は午後四時。立会人は数人。昨日までの俺の適正調査の方が、この何倍も人手がかかっている。
 あとは俺の権限で最終的な一人を選べばいいだけだ。
 人は一般に自分の適性について何も分っちゃいない。有り体に言って、俺は新総統をこの四人のうちから選ぶという任務に自分がどういう点で適性があるのか、皆目見当もつかなかった。

 仕方がないので四人の目をそれぞれ覗き込み、一番目が座っている男、つまり一番タフな狂気を宿している男に決めた。
 おそらく三分ほどしかかかっておらず、時間をかけた方がもっともらしいかとも思ったが、こんな下らないことのために演技をするのも馬鹿らしく、一刻も早くこの部屋を出て煙草を吸いたかった。
 決定した候補者の番号を竹枝に耳打ちした。竹枝は非常に満足げで、これで国家的極秘プロジェクトのうちの竹枝の担当部分、すなわち新総統選抜の作業は無事終わったことになるらしい。
 後は新総統教育部門が新総統デビューの日の朝の演説までに、命に代えてもこの新総統にその演ずるべき事柄の全てを叩き込むのだろう。なにせ国家の威信がかかっているのだ。



第十二章 DEVICE 結局我々は、我々自身を苛め貶め卑しめるための、奴らの道具にすぎない



「日中に新宿で我々が目にした落下物ね、今朝演説をしていた前総統だったんですよ」
 竹枝が思い出したように言った。こいつはさっきからはしゃぎまくっている。
「俺はこの国に来て以来、あの人の演説のファンだったんだがな」
「彼はしくじりました。今朝の演説でね」
「何をだよ」
「ちょっとした言葉の使い方です。外国の方には説明しても分かりませんよ」
 どのみち、俺を呼んでプロジェクトが進められていたということは、遅かれ早かれクビになる予定だったが、今朝のしくじりとやらが決定的だったので急遽退場と相成ったんだろう。そもそもあの総統は何十代目だったんだろうか。

 この国の総統と煙草は似ているな。
 いくらでも代わりがいるし、もみ消して次のに手を出したところで、前のと新しいのとの見分けもつきやしない。
 さすがに危険発言なので心の中で呟くに留める。

 案外、肛門という言葉が前総統の「政治生命」を奪ったというのが本当だったりするのかもしれないな。これが陰嚢だったら案外助かっていたのかも。いや、適当に思いついただけで何か根拠があるわけじゃない。
 これも内政に立ち入りすぎたコメントだ。口には出さないでおこう。

 煙草の煙をわざと竹枝に吐きかけながら、いろいろ考えを巡らせていると、竹枝が何度目だか分からない握手を求めてきた。
 汗ばんでヌルヌルしていてたまらなく不快だ。
 すぐに手を振り払い、奴に見えるようにズボンで手を拭った。
「しかし、思い返せば短いものでしたな。あなたと私はほんとに良きパートナーでした」
「思ってもいないことを言うもんじゃねえよ」
 実際、少なくとも俺の側には一欠片の感傷もなかった。そして間違いなく竹枝の側にも。
「帰国されても、より一層のご活躍を」
 帰国、という言葉にはさすがに心が動いた。
「ところで俺は、この国を安全に出られるんだろうな? ピラミッドの隠し穴を掘った奴隷は、完成後口封じに生き埋めにされたと言うけどな」

 竹枝の陽気さと自分自身の気の緩みで軽口を叩いてしまった。
 しまった、と思ったがもう遅い。
 竹枝個人を人目につかない所でいくら罵倒しようがぶちのめそうが問題無いが、共和国国家に対する批判的言辞はどんな些細なものでも厳禁だ。
 全身の毛孔から冷や汗が噴き出したのが自分でも分かった。
 だが竹枝は、気持ちの悪いウィンクをして「聞かなかったことにしましょう」と茶目っ気たっぷりにほざいた。
 今だけはこいつに感謝する気持ちになった瞬間、我々についていた武官が、俺の頸動脈に注射器の針を突き立てた。

 俺はまた、まんまと竹枝に騙されたのだ。



第十三章 YOUR FLOWERS WILL NEVER BLOOM 汝の花は決して咲かない 汝の積んだ石は崩れる 汝は何も為せずに終わる



 竹枝は任務の完璧な成功によって、陽気を通り越して躁状態になっているようだ。
 俺に注射した武官に、よくやった、と目で合図を送り、倒れそうになる俺を、竹枝自らの手で椅子に運んで座らせた。
 竹枝はペラペラと喋り続ける。俺は痺れる体を椅子にひっかけたまま、永遠にこのムカつく声を聞き続けていなければならないようだ。
 失言などとは無関係に、これが俺に用意されていたオチなんだろう。やっぱり酷い国だ、ここは。

 なーに、心配しなくても殺しませんよ。あなたを帰さないとさすがに外交問題になってしまう。
 なんてったって日本人は治外法権! ですしね、アハハハハハハハ!
 ただね、ピラミッドの話は大正解! このままおかえりいただくのも残念なので、先ほどこの狂人たちを作った、頭が悪くなる薬を注射させていただきましたよ。
 ええ、そうですよ。
 人工的に作っていたんです。
 こんな演技力も風格もあって良い声の狂人なんてそうそういるもんじゃないですから。一流の精神科医でいらっしゃるあなたが何で気づかないのかずっと可笑しくて可笑しくて。
 それからこの前後数時間の記憶が無くなる薬も配合しておきました。まあ、憶えていたら吹聴して下さってもかまいませんよ、俺は大東京共和国の総統を選ぶ仕事をしてきたぞってね。
 そんな馬鹿馬鹿しい話、誰が信じますか。それにね、あなたの言動は帰国後どんどん支離滅裂になっていきますから、なおさら誰もあなたを信じないでしょうねえ。

 それともこの国に残りますか? この国初の外国人総統ってのも、なかなか面白いかもしれませんですな……。

 


(2012年 12月 kindleにて発表)