妻の夢
妻が、気がかりなことを言う。
三つになる息子のタクヤが、時々夜中に目をさまし、虚空を一身に見つめているのだという。その時、見開かれたタクヤの瞳は、寝室の闇の中で薄緑に発光しているのだという。
私は、そう必死に訴える妻の顔を、まともに見ることができなかった。相槌をうってやることすら、ほとんどできなかった。
妻の悲痛な声が続く。
「あの子、悪霊か、それか、悪魔に憑りつかれたんじゃないかって……。私もう心配で心配で、怖くって怖くって……」
私は、心の中で呟く。しっかりしてくれ。
……そもそも、だ。
そもそも、私たちの間には、子供なんていないじゃないか。
私たちが結婚してもう長いけれど、そしてお前はずっと子供を望んでいたけれど、結局夢は叶わなかったじゃないか。
そんな辛い年月の間に、お前の精神は、次第に壊れていった。夫である私はどうしてやることもできず、ただ暗い顔をぶら下げているだけの毎日だ。そして、今も……。
私は、泣きたいような気持で、がっくりとうなだれるしかなかった。
私を、そんな不穏な生々しい夢から引き剥がしたのは、6時45分の目覚ましのアラーム音だった。
まだ水曜だ。週末は遠い。
今日もまた、込み合った地下鉄に乗り込んで出勤せねばならない。暗いオフィスで、つまらない単調な仕事に日が暮れるまで従事せねばならない。
私は一人、汗臭いベッドから這い出し、一人、インスタントコーヒーに湯を注ぐ。
そういえば、私には妻はいないし、そもそもこれまでの人生で、一度も妻帯したことなどないのだった。
(2016年 8月)