深淵の神に会いにゆく


 目の前に……男が大の字に倒れている。もう一人は……便座に座り込んでいる。それで私はというと……トイレの隅で腰を抜かしている。障碍者用のだだっ広い公衆トイレだ。背中のはまり具合がちょうど良いな、と、トイレのタイルにじかに尻をついている。ああ、少し失禁してしまった気もする。脱糞だけは避けなきゃな。括約筋が大活躍だ。こんなダジャレにも笑えないので、非常事態なのだ……。
 さあどうしよう??? ワ○ナベさんは死んでないだろうな? ガイドのはずのチ○ム君が量を間違え、毒ガスを吸ったかのように三人して崩れ落ちた。一発でやられた。出会い頭の突発事故だ。一人なら笑い話だが、全員だから笑えない。これってかなり大変な状況になってるんじゃないか? まるっきり間抜けで無様な、大事件じゃないか。いいおっさんが、三人して。当然、救急車も呼べない。呼べるわけもない。
 かくして私は、汚いトイレの床に座り込んでいる。ここは本当に毒ガス室なのかもしれない。綺麗な音楽は響かない。視界に美しい物は一切ない。そして多分、まだ終わらない。

 現実がひび割れてゆく。現実の裏側に入り込んでゆく。右に、下らない日常が、左に、寄る辺無き酩酊が。どちらに行っても、救いは無い。私は永久に救われない。私はどこに行けばいい? そもそも私はどこにいるのか? 私の麻痺しかかった五感と記憶は、私が某繁華街のとある公園の公衆便所にいることを告げる。
 だが、私は「どこ」にいるのか?
 深淵へと、落ちてゆく。トイレの湿ったタイルに座り込んで。
 ちくしょう、とんでもないことになった、と呟く私は、「どこ」にいる?
 なんて酷い光景だ。もう一昼夜はここにいるかのようだ。壁の染みの一つ一つから憂鬱が染み出している。脳細胞の一つ一つに憂鬱が染み込んでゆく。薬物が私を救わないなら、もう誰も私を救ってくれない。私の声は暗く汚い。私の外見は、歪で滑稽で美しくない。私の発言はいつも場違いだ。私の振る舞いはいつも的外れだ。私は陽気な主人公にはなれない。クールで渋い一匹狼にもなれない。私という人間は、人格は、人生は、生れた時からずっと、惨めで残念だ……。そして、まだ終わらない。
 そんな自己卑下をしているうちは、いいのだ。ここではまだ、現実の私と思考が結びついているのだから。その結びつきが、ひび割れていく。足場が、失われていく。
 誰でもない私が、割れ目の深い所に落ち込んでいく。そもそも私はどこに向かっているのか? 現実の底の底、裏の裏、下の下……。

 目が見えない、というのは、ただ暗闇にいることではない。視覚情報を欠いた、視覚そのものが存在しない状態なのだという。同様に、現実世界を欠いた私は、純然たる概念と思考と連想の空間にいる。絶望が産み出す憂鬱が、どんどんと分厚く濃厚になってゆく。人間は下らない。人生は下らない。哀れで惨めで醜悪だ。希望は虚構だ。目的は虚構だ。私の所有する全ては干からび、バラバラになり、ゴミ同然となり……。さて、今私はどこにいるのか?

 深淵。
 相当深いところまで潜ってしまった。これより先に行けば、おそらく息が続かない。そうだ。ここが深淵だ。ついに来てしまった。初めてなのか、久しぶりなのか、よく分からないが。
 しかし、なんと陰鬱な深淵だろう。なんと惨めったらしい深淵だろう。太古より、ラリった聖者はここで、神と出会うのだ。しかし私の深淵は、絶望の色に膿んでいる。静かだ。しかし静謐ではない。みすぼらしい、惨めな静けさだ。貧乏人の財布の中身のような、そんな、他人に知られたくないような静けさ。私の神は、ここで私を優しく迎えてくれるのだろうか? 驚くべき真理でも教えてくれるのか? それとも、怒って叱咤してくれるのか?

 私は、とにもかくにも神の座の前に辿り着いた。『今後の人生をずっと、精神病者の廃人として過ごす』と、誰かの無感情な声。ああ、私の声だった。もう私の精神は崩壊する寸前だ。どれだけの後遺症が待っているのか? なんと暗く無意味な人生なのか。
 私はそこまでして、神の座の前にいる。すがるつもりはない。そもそも、間抜けな、かっこわるい事故によって、否応なくここに来てしまっただけだ。

 そして。

 ……なんとなく、分かっていた。
 誰も、いねえ!
 小さな安っぽい事務机の上に、黄ばんだ紙が置いてある。
『タダ今留守ニシテオリマス。御用ノ方ハ……』
 誰も、いやしねえ!

               *

「ス○サキさん、ちょっと、何やってんすか!」
 誰かが耳元で、慌てて怒鳴っている。だが不思議と、声を殺しているようにも聞こえる。きっと私の耳はまだ壊れたままなのだ、と一人合点しかけたところで、腕を掴まれ、その場所から引き摺りだされた。
「スギ○キさん、アホですか! 急にフラフラどこかに歩いてったと思ったら!」
 足早に歩きながら私を叱っているのは、さっきまでぶっ潰れていたはずのワ○ナベさんじゃないか。生きてて良かった!
「交番に入ってくの見た時には、心臓止まりそうになりましたよ! 何考えてんの? まったくもう!」いや、私に分かるわけがないだろう。
 眠らぬ街大東京でも、深夜の交番は、往々にして無人である。お巡りさんも忙しくて、人手不足なんだろう。
「うう……、ラッキーだったね」
 ふらつく足取りで、私は、五分前なら絶対言わない言葉を、力なく吐き出していた。

(2014年 3月)