二章 蟲飼いの山 ~懶惰なる山河、山々の襞~

 

 1 醜い女

 

 

 

 昭和四十六年、東京、新宿三丁目。
 十人も入れば満席の小さな酒場だった。
 外は初夏の激しい雨が、何時間も降り続いている。日の暮れた後の豪雨は、盛り場を殺す。週半ば、夜も徐々に更け、客は常連のスノハラとマキだけ。バーテン兼調理人兼店主のリュウスケはいかにも暇そうに、グラスなど磨きながら二人の話に相槌を打っている。
 スノハラは、ウィスキーをグイッとあおると、呟くように語り始めた。
「俺の職場にさ、暗いおばさんがいるんだ。おばさんっつっても、俺たちと同じぐらいだろうな。三十いってないはずだ」
 フーテン崩れのスノハラは、今では人のツテで四谷の小さな印刷会社に雇ってもらい、毎朝中央線の満員電車に揉まれながら通っている。
 スノハラとは、この店で何度か顔を合わせ、何となく顔見知りのマキ。スノハラが自分に色目を使っているのには、とうに気づいている。気づいていて、鈍感なふりをしている。リュウスケも、そんな二人の距離など、すべてお見通しだ。
 マキが昼間何をやっているのやら、スノハラはおろかリュウスケも、はっきりしたことは知らない。看護婦よ、と言ってみたり、映画監督のお妾(めかけ)さんよ、と言ってみたり。その時々で、全部本当なのかもしれないし、虚言壁があるのかもしれない。それすらそもそもよく分からない。
 マキが、すぐにつっかかってきた。
「ねえねえ、なんでそんな人の話するの? お酒が不味くなるじゃない。若くて美人の姉ちゃんの話でも、もって来なさいってのよ」
「だって、さあ」
 出鼻を挫かれて、スノハラが口を尖らす。若くて美人の姉ちゃんなら噂話なんてしないでも、今俺の隣にいるじゃない、などと軽薄な言葉が飛び出すほどには、まだ酒は回っていない。
 リュウスケが割って入る。
「まあまあ。その暗いおばさんとやらの話を始めたってことは、何かあるんでしょう、その女性に。ねえ、スノハラさん?」
「ああ、そう! そういうことなんだよ、リュウちゃん」
「へえ。じゃあいいわよ。発言を許可してあげる」
 マキとリュウスケは、そろって興味深そうな顔でスノハラが口を開くのを待つ。スノハラはさほど怯んでいない。元来、ペラペラと長い話をするのが好きなのだ。

 スノハラが話を再開する。
「なんていうか、その人ってさ、見てると、こっちの気持ちがどんより暗くなる感じなんだよ。風船みたいに顔とかパンパンで、でもなんか、人間の健康な脂肪以外のモノが詰まってる感じ。セルロイド人形みたいな、っていうか。何か硬そうなんだよな、肌が」
「うーん、やっぱりあんまり面白そうな話じゃないわよ、職場の女性の悪口なんて」
「そうですよ。そういう殿方は、モテないですよ」
 マキどころか、リュウスケまでスノハラをたしなめ始めた。さらにマキが追い討ちをかける。
「で、結局どういう話なのよ? その女性の方が、何か怪しげなことをする、とかだったらね、あなた、導入部で失敗してるわよ。最初から暗くて気味の悪い人って言っちゃってるんだもん。怪談のイロハを踏み外しちゃってるわ。スマートじゃないわよ」
 スノハラは参ったなという顔で苦笑する。
「カイダンだけに、踏み外しちゃいましたか?」
 リュウスケが、冗談で助け舟を入れる。
 スノハラは火事場泥棒のように話を再開する。もとより話をやめるつもりなどない。
「いやいや、違うんだよマキちゃん。その人が怪しげな変なことする、ってな話じゃないんだな」
「ほう、じゃあ?」とリュウスケ。
「うん。その人な。うーん、仮名、田中女史にしとくか。その田中女史、ただ、一日そこにいるだけなんだよ。部屋のムードを暗くする以外、別に迷惑かけたりしない。まあ仕事はトロくさいんだけどさ。田中女史は定時に来て定時に帰る。職場の誰とも親しく話さない。友達なんていない。もちろん俺も話さない」
 リュウスケが首を捻る。
「つまり、その田中女史は、スノハラさんとも、接点が無いと?」
「ああ。接点がある、なんて、俺は最初から言ってない」
 マキは、むしろ興味が湧いた、という顔で目を輝かせた。
「んん、じゃあどう話が膨らむのよ?」
「俺ね、他の女子社員から聞いちゃったんだよ。ちょっと変な話……。それはね、田中女史って、昔はとびっきり綺麗だったんだよ、って」
 スノハラは、わざと声のトーンを落とし、芝居がかった渋い声で言った。
「ほう」とリュウスケ。
「ほうほう」とマキ。
 二人が食いついてきたのに気を良くしたスノハラだったが、声のトーンは戻さない。
「その噂好きの人が言うにはな、田中女史は昔、文句無しの美人で、とても細かった。明るかったし親切で仕事もできて、かっこよかった。当然かなり人気もあった。で、社内の独身連中の幾多の誘いを全部袖にして、そのうちどこかの色男と結婚して、寿退社とあいなった。お相手は、どこだか地方出身の男だったらしくて、仕事も辞めて、その男の地元に引っ越しちゃった。田舎の旧家にお嫁入りってことなのかな、そこまではちゃんと聞いてないけど。……でもさ、半年ほどで戻って来ちゃったんだって。苗字も、ちゃんと旧姓に戻ってるわけよ」
 リュウスケが確認を取るように質問する。
「スノハラさんは、その当時はいなかった?」
 スノハラは頷く。
「そう。俺、就職したの二年前だからねえ。それよりも前の話らしいよ。で、だ」
 一方、マキはいつのまにか盛り下がっていた。コロコロ機嫌が変わる気分屋だが、それをいつも包み隠さないので、かえって男心をくすぐるタイプだ。そんなマキが、不満げな声で言う。
「なんだか、やだなあ、離婚の話だなんて。やっぱり嫌な話だったじゃないのよう」
 だが、スノハラはめげない。
「いやいや、ここからが大事な所なんだ。その、田中女史が出戻ってきた時さ。上司が連れてきて、ご本人の希望で復職することになった、みたいな紹介をシレッとしたわけなんだけどさ。その隣にいるのが、みんなが知ってる田中女史とは全く別人にしか、見えなかった」
 マキは悲しげな顔になる。
「まあ。苦労なさったのね」
「いやいや、そういう湿気(しけ)た話じゃないんだ。もう、完全に別人なんだ。声ぐらいしか、かつての面影が無いんだって」
 リュウスケが、また冷静な口調で質問する。
「別人とすり替わってた、とか」
「そんなアホな話あるわけないでしょう。第一、仕事憶えてるし、昔の話も通じるんだって。もちろん名前も本人に間違いないのに、それでも、見た目は全く違う人物になっちゃってた」
 マキがたまらず口を挟む。
「どういうことなのかしら、それって?」
 スノハラはわざとそっけない声で答える。
「それは俺が知りたい」
 だがスノハラは、マキの目に好奇心の光が戻っているのを、見逃していない。
「嫁ぎ先で、何かすごいことがあったんですかね?」とリュウスケ。
「誰か、それ聞き出してないわけ? さすがに聞くでしょ?」とマキ。
 二人の反応に、スノハラは内心得意満面だ。
「まあな。不思議だもんな。実際その噂好きの女子社員は、一度だけ尋ねたらしいよ」
「やっぱりねえ。そしたら何ですって?」
 マキの顔が近い。
 スノハラは、マキの潤んだ目を見つめ、わざと一呼吸置く。
「そう尋ねられた田中女史はね、まず『えっ?』って。そんなこと言われるなんて心外だ、って顔したんだって」
 リュウスケが「むむむ……」と声を上げる。マキも、むむむ、という顔をしている。
 スノハラは続ける。
「そして、とてつもなく嫌なこと思い出したみたいな、みるみる暗い哀しい顔になったって。だからそれ以上、もう誰も聞けないんだって」
 マキが、降参するのが悔しくて悪あがきでもする子供のように、虚しい抗弁をする。
「でもね、女性って大変なのよ。何があったのか知らないけど。辛い目に遭われて、神経衰弱になったんだわ。知ってる? 神経を病むって、死神みたいにガリガリになるイメージだけど、本当は、食べ過ぎで太る女性も多いのよ」
「でも、身長縮むってのは、変だろう?」
 スノハラは、将棋の詰めの一手を打つかのように、ビシリと言う。内心は勝負に勝ったかのような気分だ。
「えっ?」
 案の定、マキ、リュウスケはそんな声を上げて、そして黙ってしまう。
 スノハラは続ける。
「だからさ、ファッションモデルみたいな美人が、俺の知ってるデブで足の短い陰気なおばさんに変身して戻って来た、ってそういう話。ああ、実物見せなきゃ、ピンとこないかなあ。こんな話して、失敗だったかなあ。だって、俺だけ不思議がってんだもん。退屈だったかなあ……」
 リュウスケは、スノハラさんはこういう嫌味なところが無ければもっとモテるのになあ、と言おうか迷って、やめた。その代わりに、この話の流れに、うまく自分も便乗することにした。
 マキが何かダラダラ喋り出さないうちに、急いでリュウスケは口を開いた。
「いえいえスノハラさん、退屈だなんてとんでもない。大変興味深いお話でしたよ。そう言えば……」
 店の入り口のドアの向こうで、雨足はますます激しさを増している様子だ。客は、しばらく、誰も来ていない。もう、来そうな気配も無い。

 

(2013年 8月)