死に続ける女

 





 恋人が、パンダを見たいとねだった。たれ目、しもぶくれ気味の、良く言えば愛嬌のある顔立ち、背が低く、太っているとまでは言わないものの丸っこい印象を与えるシルエット。恋人はパンダに似ていた。私は少し笑って了解した。
 動物園の売店で、パンダの耳のついたカチューシャをプレゼントしてやろうと思った。マスコットキャラクターだとかパンダだとか、そういう俗っぽい可愛いものが好きな女だった。

 動物園で恋人は、飽かずパンダの檻の前を離れようとしなかった。珍獣と言えどたかが哺乳類だ。一分も見れば飽きそうなものだが、そうはいかなかった。パンダが客を無視して寝ていたのだ。
「あーん、もう。目を覚まして、こっち向いてよお」
 恋人は携帯で写真を撮ろうと必死になっている。とても楽しそうだ。気長に待つ気満々で、腰を曲げ低い柵に両肘をつく格好で、まるでプロカメラマンのように携帯電話を構えている。

「いい写真撮れるといいね。俺は他の動物見てくるよ」
 付き合ってられない、と思った私は、彼女に一声かけてその場所を離れた。携帯があるから、はぐれることはない。
 ふらり歩くと、トラの檻があった。トラもまた、けだるそうに寝ていた。少し蒸し暑い初夏の昼下がり。風はなく、空気は獣臭い。日差しはやや強い。何もかもがのんびりとしている。
 私は、刺激が欲しいと思った。だから猛獣の名前に魅かれたのだ。おいトラ、吠えてみろよ。ちょっとは怖そうに凄んでみろよ。そんなことを思いながらトラを見ていた。文句無しに幸せな休日だった。

 ふと空など見上げ、またトラに目をやった時だった。
 信じられない光景が、私の目の前に広がっていた。トラの目の前に、若い女が立っていたのだ。
 檻の中、虎の前足の爪が届きそうな至近距離。おそらく、飼育係ではないだろう。
 女は、白い清楚なワンピースを着ていた。そして、トラに怯えていた。次の瞬間、女は私の方を向いて逃げようとし、すぐに倒れた。足がもつれたのではない。トラが背後から素早く飛びついたのだった。
 うつ伏せの女の背の上のトラは、女の軽く倍以上の体長があるように見えた。重さなど比べるべくもない。数百キロの立派な成獣だ。トラは前足で獲物の肩を押さえると、グルル、と喉を鳴らした。そしてすぐ、迷いなく女の首の後ろに牙を立てた。テレビで見たまんまの、野生動物の王者の、無慈悲で獰猛な姿だった。
 もちろん私は、檻の金網越し、言葉にならない大声を上げていた。うわあああああ、とかなんとか。女の体は、私の見ている前で、見る見るうちに血を噴き出し、バラバラになっていった。
 周囲には数人、私と同様の見物客がいたが、皆一斉に私の方を振り向いた。誰一人、檻の中を見ていなかった。
 それで私は、何かおかしいと思った。あらためてまた檻の中に目をやると、トラは寝ていた。そして私の声で目を覚ましたのか、むっくり起き上がり、私の声に怯えるように、少し奥の方まで避難して、また座り込んで目を閉じた。食い散らかされた女の死体など、どこにも存在しなかった。
「どうしたの?」
 声をかけてくる老夫婦に、
「すいません、寝呆けました」
 私はそう返事をするしかない。
「あれまあ、トラちゃんの方がビックリして逃げちゃったわよ」
 老夫人が陽気に大笑いした。それで他の見物客も、私が何か呑気なドジをしただけだ、と納得して、もう私に注意を向けなくなった。すぐにでも立ち去りたかった。しかし今一度、トラの檻の中、女が倒れたはずの辺りをまじまじと見ざるを得なかった。
 やはり、血痕も肉片も、そこには無かった。本当に白昼夢を見たのだ、と無理矢理納得するしかなかった。少なくともその時は、そう考えるより他なかった。
 



 しかし私の目には、あの幻の女がこちらを向いて駆けだそうとして、そしてすぐ倒れるまでの一瞬、ほんの一瞬、目が合った瞬間に見た女の表情が、強烈に焼き付いていた。
 厳しい顔ではあったが、猛獣に襲われているにしては、取り乱していなかった。むしろ、青ざめてはいたが毅然としていた。私の方に逃げようとした、というよりは、私に最後の瞬間の顔を見せようとして、こちらを向いたようにも思えた。

 あの後、動物園で恋人と再び合流した私は、終始ボンヤリし、「どうしたの」と訊かれても、急に眠くなったんだよ、と頑なに弱みを見せることを拒んだ。
 そうだ。あの出来事を私は、弱み、あるいは恥、と受け取っていた。言って分かってもらえる、筋の通った悩みや嫌な出来事なら話せる。だが、あの時の目撃談は、自分の弱みを喋ること、恥ずべき部分を話すことのように思えた。恋人にさえ話すのがためらわれる、そういう類の。例えば、出来心で万引きをしてしまって後悔している、という悩みがあれば、同じような微妙な気分になるかもしれない。
 それでいて、自分の頭がおかしくなった、という感じも全くしない。あれは、私の目にしか見えなかったとしても、確固たる現実にしか思えなかった。

 その女が次に現れたのは、動物園の翌日の朝、会社の前の横断歩道だった。

 白いワンピースの女は、大勢の歩行者が不機嫌に包囲する大正方形、つまり大通りの交差点の真ん中に立っていた。
 その時もまた女は、唐突に出現したのだった。
 そして一秒後に大きな乗用車にはねられた。女は、ワンピースと長い黒髪をはためかせ、何メートルも飛んでアスファルトに叩きつけられた。女はバウンドして、もう一度腰から着地し、一瞬ピクリと動いて、そして消失した。
 私は幸いにして、声を出すことも取り乱すことも避けることができた。昨日の女だ、と咄嗟に気づき、すんでのところでグッと奥歯を噛みしめたのだ。人身事故の現場なんて見るのは初めてだが、女は物理的な質量を持った物体として、はね飛ばされたようにしか見えなかった。しかしその衝突音、アスファルトに落ちた嫌な音、一瞬アスファルトに飛び散ったように見えた赤い血、それらすべては、やはりまた私にしか見えていなかったし聞こえていなかったに違いない。その惨劇の光景は即座に掻き消え、女が出現する直前のまま、何事もなかったように交差点は元通りに戻ったのだから。
 はね飛ばされた空中で、偶然なのか意図的なのか、女はまたもや私の方を見ていた。
 そして、間違いなく一瞬目が合った。その顔は、覚悟を決めた毅然とした無表情に覆われており、履歴書の写真のように端正だった。女の表情からは、またも何も読み取れなかった。そこが却って意味深なように思われて、仕方がなかった。

 その日の午前中の仕事は、手に着くはずもなかった。昼食はいつものように、同じ会社の違う部署で働く恋人と、会社のビルの屋上のカフェでとった。
 動物園と同じく、その朝の交差点のことも、恋人に話す気には毛頭なれなかった。
 恋人は甘いパンを食べ終え、一息ついてから、言った。
「ねえ、昨日の途中からさあ、ヒロ君、なんかちょっと変だよね。様子がおかしい」
「どこがだよ」
 女というのは鋭いものだ、と私は感心する。
「ボーッとしてるようで、それでいて、なんかソワソワしてる」
「ボーッと、は自覚してるよ。昨日から言ってるだろ。眠くてダルいんだよな」
「じゃあ、ソワソワは?」
「ソワソワしてる、俺?」
「うん、何ていうか……、何か良いことあったみたいな感じ? あ、もしかして昨日動物園で、誰か意外な人に偶然出会ったとか?」
「誰とも会ってねえよ」
 恋人の洞察の鋭さに驚いて、不自然に強く否定してしまった。失敗した、と思った。
「……ふうん」
 恋人は何を早合点したのか、やや不機嫌そうに、私を残して席を立った。彼女の方が五分ほど早く職場に戻らねばならなかったので、これはいつものことではあったが、何も悪いことをしていないはずなのに、私が罰せられているかのような格好になってしまった。理不尽なことこの上ない。そんなことを言ったら、あの白いワンピースの女の出現こそが理不尽この上ないのだが。




 恋人とは、もう数か月の付き合いになっていたが、彼女を私の一人住まいのマンションに呼んだことがなかった。かといって私の方が、彼女の家に入り浸ることもなかった。一度だけ遊びに行って、紅茶を一杯入れてもらって、間が持たなくなって小一時間で退散したっきりだった。性交渉はもっぱらホテルを利用していた。
 付き合い始めたころに彼女の部屋に招かれた時の私の態度から、彼女は何かを感じ取ったのだろう。気安く、私の家に遊びに行きたい、と言うことを禁じるような、そういう無言の壁を作ることに成功した。もちろんその代償に、デートやホテルでは人一倍誠意を見せて、サービス満点思いやりある彼氏を演じたつもりだ。別に何かやましいことがあるわけではない。
 恋人は、私の家で料理なんか作り始めたら、きっと上手いだろう。それ以外のこともいろいろ気がつくだろう。あからさまにそういう雰囲気を嗅ぎ取っていたので、そしてそんな所帯じみた彼女の側面はおそらくひどく魅力を損なう気がしたので、いずれそうなるにせよ、数カ月だけでも猶予が欲しかった、そんなところだった。

 そんなわけで私はその休日の朝も一人、スパゲティの具にする茄子を狭いキッチンの小さなまな板の上で切り終えた。二つあるガスコンロの右側のフライパンで茄子を炒める。火が通りかけた所で壜のトマトソースを加える。左側の鍋ではスパゲティがゆだっている。菜箸で一本摘まんで噛んでみる。あとおおよそ一分の過熱が必要。そのうちにまな板と包丁を洗えるだろう。左側のコンロの更に左のシンクに放り出してあったまな板と包丁を手早く洗い、脇に置く。今度は麺のゆで具合を調べる時間も惜しく、経験に基づく勘で鍋の火を止める。タイミングを逃してはならない。手早く麺を掬い上げ、湯を切ってフライパンに放り込む段取りだが、麺を湯から上げる前に今度はフライパンの方のコンロを再点火しておく。

 そこまで手早く作業を進めた時、私は自分の左にごく淡く、人の気配を感じた。目視によれば、その女はすぐ近くに立っている。だが気配は、気にしないと分からないぐらい儚い。立っているのが生身の人間なら、そんな状況はまず起こらないだろう。その気配の儚さが、私の驚きを、かなりの程度、緩和させてくれたようだ。
 だがその後十秒ほど後、やはり私は腰を抜かすことになるのだったが。
 私が彼女に気づき、次の瞬間したことは、そっと女を観察することだった。こんな近くで彼女を見たことはない。チャンスだ、とさえ思えた。彼女の極めて地味な雰囲気は、その風貌からくるものではなくて、気配の希薄さからくるもののようだ。というのは、彼女の横顔は小ぶりでとても整っていて、清潔な感じのする美人だった。
 だが私の観察は、ほんの数秒で打ち切られた。
 その唐突に現われた美女は、これまた唐突に、私がシンクに放置しておいた包丁をさほど表情も変えずに手に取った。その動作があらかじめ決められていたかのようだった。と言うより、それだけが目的で現れたかのようだった。
 女は包丁を両手で強く握り、自分の左の頸動脈にあてがうと、後ろから前に向かって引くように滑らせ、力強く自身の首にめり込ませた。
 女の表情はその時になって、さすがに変化した。歯を食いしばるような、必死に、まさに必死に、何かを訴えかけるような強い目で、体ごと私の方に向き直り、そのせいで私とスパゲティの鍋は大量の血しぶきを浴びた。
 女は、次の瞬間にはフッと白目を向いて膝から崩れ落ちた。私は、血液が音を立てて焦げる臭いを初めて嗅いだ。気がつくと私は、野太い悲鳴を上げながらキッチンにほど近い玄関の鉄のドアを開け、部屋の前の通路に這い出していた。
 隣人たちにどう思われようとも、それはその時の私にとって非常に些細なことだった。私は尻もちの姿勢で自宅のドアの前にひっくり返りながら、返り血に塗れながら、それでも外の空気を吸って、やや冷静さを取り戻しつつあった。
 動物園で、交差点で、あの女は、電気のスイッチを切ったかのように一瞬で消失した。今回もそうであってほしい。いや、きっとそうなるに違いない。なぜなら彼女は今回も、突然に現われたのだから。
 ごく短い間に私は気を取り直し、中途半端に閉じかけていた自宅玄関のドアを開けた。ドアからほんの二メートルほどのところ、見慣れたキッチンの床に、白い服を真っ赤に染めた若い女が横たわっており、床もキッチンの壁も真っ赤に染まっており、女の脚はビクンビクンと痙攣していた。思い直してみれば、なぜ私は再びドアを開ける時、自分が浴びた血糊が依然消えていないのに、女だけが都合よく消えてくれていると期待したのだろう。
 瀕死の女と再び対面し、先ほどの倍ほどの声量の悲鳴を上げ、先ほどの倍ほどのスピードで部屋の外に飛び出した。
 隣人の、同年代の男が隣のドアから顔を覗かせた。
「どうしたんです?」
 私はそれとほぼ同じ瞬間に、掻き消えるように、返り血に染まっていたはずの自分の手から、赤い色が消失するのを見た。私の動転は、即座に消えてはくれなかった。しかしかろうじて、また今回も、劇的な色彩の変化を知覚したのは私だけであり、そもそも隣人は最初から真っ赤な私など見てはいないだろうということに、気づくことができた。
「……いえ、すいません、お騒がせして……あの……夢を見たんです……悪い夢を……」
 たどたどしく、か細く、これだけの言葉を吐き出すと、裸足の私は自室のドアをまた開けた。
 キッチンの床の、先ほどまで存在しているようにしか思われなかった女の死体と血だまりは、嘘のように消失していた。私が何か極めて不穏な隠し事をしているようにしか思えなかったであろう隣人は、私の背後から無許可で室内を覗き込んでいた。だが、まだコンロに火がついてグズグズになっているスパゲティ以外、非日常的なものを発見することができず、知らぬ間に彼の部屋に帰ったようだった。
 こんなことなら、夢なんて言わず、調理で軽い火傷を負って大袈裟な声を上げてしまったんだ、とでも言えばよかった、と後悔する余裕が戻ってくるのには、さらに数分を要した。
 私が無駄にした時間はその数分に留まらず、出来損ないのスパゲティと茄子が冷めるのを待ってから捨てて、さらに呆然と、しかし異常にソワソワとして、何も手に付かなかったその後の数時間に及んだ。髭も剃っていなかったし朝風呂にも入っていない。
 私が本当に我に返ったのは、聞き憶えがあるジャズのメロディーが耳に入り、しばらくしてそれが私の携帯電話の着信音であることを思い出してからだった。
「ねえ、今どこ? 私もう映画館のロビーにいるよ」
 待ち合わせの時間だった。
「ごめん、今日は無理だ。急に無理になっちゃった。出かけられないんだ。本当にごめん」
 恋人は、こんな言葉を聞いても陽気だった。
「えー、急にどうしたの? 声、病気って感じもしないけど」
「うん、多分、病気じゃないから。心配しないで」
「あ、分かった」
 まだ陽気だ。そして極めて陽気な、ジョークを言う時のいつもの口調でこう言った。
「急に、私の知らない女の人が、家に来たとか?」
 この言葉が引き金となって、日常に復帰しようとしていた私の心を再び新鮮で鋭い恐怖が支配した。
「ちょっと、口籠らないでよ。冗談でしょ?」
「……そ、そんなわけないだろ。とにかく今は……」
 恋人からの電話は、いつの間にか切れていた。

 


 映画には行かなかった。そしてその夜、私は淫らな夢を見た。

 夢の中、私は恋人を抱いていた。
 いつのまにか、彼女の体が軽くなった。というか、上に乗せていたわけではないのだが、私の腕の中にいる彼女が突如、華奢になった。体の線がスッと細くなり、背丈は変わらないのに一回り小さくなった。私はそれを好ましいと感じた。こちらまで急に身軽になった気がして、窮屈さが取り払われ気持ちよかったし、腕の中の女性に対する性的興奮もさらに高まった。
 
 恋人の顔も、いつのまにかあの女になっていた。私は、それを不思議に感じなかった。私は恐怖に飛び起きたりはしなかった。元来、ホラーの主人公としては不適格な、能天気な性格なのだ。
 死に続ける彼女も、夢の中では、また血みどろになって私を脅かしたりはしなかった。彼女は普通の、いや、極めて魅力的な女性として、控えめにではあるが悦びの顔を見せた。私たちは、親しげに愛の言葉さえ交わした。
 
 夢の中、彼女が死ななかったのには、納得のいく理由がある。この夢は、彼女が起こした超常現象などではなく、私の願望が産んだ、純然たる私の性的妄想だったからだろう。
 そして彼女の夢など見たのは、そもそもなぜか。それにも納得のいく理由がある。私が彼女の見た目に、強く惹かれていたからだ。そして、死にゆく間際の形相と、あられもない姿を何度も見せつけられたことで、無意識のうちに、本当は全く素性も分からない彼女に、非常に深い親密さを覚えてしまっていたからだろう。

 そういうわけで、早くも翌日月曜日の朝には、私は白いワンピースの彼女との遭遇を、率直に言って、期待していた。




 スパゲティの件で、さんざん取り乱し尽くしたので、もう今度こそ驚かないぞ、という自信が私の中に形成されていた。
 そもそも人は、不意を突かれたからといって必ず驚くというものでもない。不慮の出来事など日常にあふれているが、いちいち腰を抜かさないで人間はそれに対処できる。そうではなく、起きたら嫌だな、と心の隅で怯えながらその出来事を待ちうけている時、いざその瞬間が来ると、なぜか過剰にビックリしてしまう、とそういうものなのだろう。
 だから私はもう驚かない。私は、彼女との再会を待ち望んでいるのだから。もちろん断末魔の彼女の姿をじっくり鑑賞して性的興奮を味わう変態趣味者ではない。が、とりあえず、今度こそは、仰天せず、冷静にじっくりと彼女を見据えたい。そしてできることなら、ただ見ているだけでなく、何らかのアクションが起こせないだろうか。そこまでの腹づもりをしていたのだったが、月曜朝の通勤ルートでは、彼女は現れてはくれなかった。

 ランチタイムの時間、私はいつも通り、パンダの恋人と屋上にいた。若干上の空だったかもしれないが、別に、新しい女に惚れたから彼女との恋愛感情が冷めた、というわけでもなかった。私は、この世のものならぬ魔性の女に魅入られ虜になったわけではなかった。やはりホラーの主人公には向いていないらしい。
 喫茶店の新しいバイトの笑顔がえらく可愛いとか、部署の新人がスタイル抜群だ、とか、そういう類の楽しい出来事だ。そういう場合に私は非常にウキウキして、その子のことで夢中になってしまうが、その時々の恋人に即座に飽きるほど、誠実でもない。
 昼の間、恋人にずっとわざとらしく言い訳を続けるという愚は犯さなかった。そんなことをしても、勘のいい彼女の誤解は膨らむばかりだからだ。私は、あの電話の後、熱をはかったらやっぱり三十八度あったんだ、とだけ言った。だから起きられなくて、そして起きても身支度をする元気もなくて、ただ一日寝ていたのだ。と。
 恋人の方は、どうやら私の嘘を信じてくれたようで、私の体調を気遣ってくれさえした。私は全く気が咎めなかった。恋人の心を平穏に保てて、上手くやれたと思った程度だ。

 普段通りの会話の雰囲気を取り戻し、昼食のオープンサンドも平らげ、恋人が職場に戻る時間となった。
 恋人とにこやかに手を振って別れ、私も後数分後には席を立たなければ、となった瞬間、少し離れた屋上の端、フェンスを乗り越えようとしている、白いワンピースの彼女が目にとまった。まるで、私の恋人がいなくなるのを待っていたかのようだった。
 幸い、周囲に人はいなかった。

 私の胸は躍った。私は迷いなく、彼女に歩み寄った。その安全柵は、それほど高さがなく、一番上に跨るような格好になっている彼女の手足まで充分私の手は届く。膝まであらわになった彼女の脚が、とても扇情的だった。
 私は、彼女の手首をしっかりと掴んだ。彼女は、幻影ではなかった。しっかりと掴めた。女は抵抗もせず、私に顔を向けた。彼女は初めて、心の通った表情を見せた。夢で勝手に私が思い描いた微笑とは少し違う、しかし同等以上に女性として魅力的な顔立ちだった。
 心の底からホッとしたような、親しみの込もった潤んだ瞳。乱れた髪が良い形に頬を隠している。
 そのままのポーズで、私たちは言葉を交わした。最初に口を開いたのは女だった。
「……やっと、私を無視するのをやめて、手を差し伸べてくれたのね」
 もの静かで知性的な声だった。
「ああ。やっと取り乱さないで君を見ることができた」
「……もう何回死んだだろう。そのたび、とても痛かった」
「ごめんよ。本当に、ごめんよ」
 私は、この奇妙なラブロマンスに酔っぱらっていた。現実の出会いなら、こんな歯の浮くセリフをとっさに囁けるはずもない。私は、彼女が私にしか見えていないという確信があった。それでいて、彼女は、頭のおかしくなった私の妄想などではなく、確固としてそこにいる、という確信もあった。それに、何度も繰り返し死なねばならない彼女をついに救ったのだ、彼女にとても良いことをしたのだ、という大義名分に、私は満足感すら味わっていた。
 私は、半ば感極まっていた。
「ごめんな。今まで、何もできなくてごめんな」
「ありがとう。……これで私、天国に行けるわ」
 ん? なるほど、そういうことか。もう彼女とは逢えないのか。それはそれで、ロマンチックじゃないか……。
 私は、彼女を抱き寄せ、腕にあらん限りの力と情熱を込めた。
 彼女は、非常に近い距離で私を見つめ、私の胸の中、最高に甘い声で、最後にこう言った。
「……交代で、あなたがこれから死に続けてくれるのね」

 私は、落下していた。自分にしか見えない女を抱きかかえながら。

 というわけで、私の間抜けなストーリーはここで幕を閉じる。

 さて、君。
 私は先日から、君の目の前で何度も死んでいるんだが、まだ全然気づいてもらえないようだ。そのたび私は、死ぬほど痛いんだが、その甲斐もなく。
 だが君は近いうち、もしかしたら明日にも、私が見えるようになるだろう。そして初めの私のように、君も酷く怯えるだろう。
 そして君はやがて、私に慣れて、勇気を出して、私に手を差し伸べるだろう。

 そうしたら、君に、ここまでの全ての種明かしを教えてさしあげよう。
 それから後しばらくは、私の代わりに死に続けなければならない君に。

 

(2013年 1月)