―前編―
1 何度も乗り換える
県境の長いトンネルを抜けると、そこは……、呆れたもんだな。今回もまた、曇ってんのかよ。
首都、つまり国で一番の大都会の隅っこから、ひたすら路線を乗り継いで十三時間。
電車は、乗り換えるたび、メッキが剥れていくかのようにショボくなる。一枚、二枚、お前の故郷は、ホントの育ちは、こんなもんだ。そう嘲笑われているような、屈辱感と少しの身軽さ。
いや、メッキが剥れているのは、鉄道ではなく、俺自身なんだろう。
生まれ育った田舎町の駅までもう数時間。これ以上何か詰め込まなくても、腹が減って始末に負えなくなることもない。
故郷が近づいてきた。
俺の心は、それにつれてますます乾き、ますますヒビ割れていった。
二両のローカル電車は、海岸沿いの古びた鉄路をヌルヌル走る。
線路脇の石が、木が、そこに存在する意義などもたず、ただ在り続けるように、その鉄道も、何十年もただ走行と停止を繰り返し続けているだけだった。
俺が十数年前、隣町の高校に通うために律儀に毎朝駆け込んでいた、あの頃と何も変わらない。
トロリトロリと音もなく溶け落ちる蝋燭のような、静かで確かな、何の感慨も与えない動き。
ただ動いているだけの、田舎の風景の一部にすぎない。
背を丸め、顔の位置を下げて、車窓から、低い曖昧に曇った空を見上げた。
すぐに雨が降り出しても、降り出さなくても不思議はない、無関心を強いるような遠い背景。それが当たり前のようにそこにあった。
わざわざ見ているこっちが、まるっきり馬鹿みたいだった。
だけど、それはただの背景だとも言い切れない。
この泥人形たちが住まう土地の、それは空気そのものだ。そして、泥人形である俺の、故郷そのものなのだ。
二年に一度ほどの、だがもう五、六度目にはなるだろう帰郷の旅。
俺も、ずいぶん歳をとったもんだ。
まだたまに「若い人」とか「お兄さん」と呼ばれたりすることはあっても、自分から若ぶるのには、ちょっと恥じらいを感じる、そんな程度には。
要するに、少なくとも年齢だけは、立派な大人になってしまった。
海沿いのターミナル駅。
ターミナルと威張っていても、内陸山間の田舎列車が、海沿いの、更に輪をかけて鄙びた路線に接続する、という以上の価値は無い、そんな残念な駅。
そこが、今乗っている電車の終点だった。ここで最後の乗り換えとなる。
電車が停車し、否応なくその中から追い出されると、細い短いホームで一日六本の臨海線を待つ。気長に、待つ。
そのホームは、いつもうっすら畑の肥料の臭いがする。真冬でも変わらない。考えてみれば不思議な話だ。
接続ダイヤに苦心の跡は見られるけれども、それでもいつも、最短で半時間は待つ。その間に、ホームで知らず深呼吸し、低い山並みとその上の頼りない空の色を見ることになる。毎回そうだ。
そういう、決まりきった同じ手順を踏むその間に、心は変容を遂げる。
と言うと何やらかっこいいが、要するに、自然にこの故郷のド田舎ムードに順応してしまう、というだけのことだ。
いつ来ても田舎だなー、何十年たっても一向に発展してねえなー、駅の敷地が無駄に広いなー、都会だとこうはいかないなー、などという旅行者の感慨が、いつの間にか湧いてこなくなる、全てが当たり前に見えてくる、そんな永劫の時を経て、ようやく、旅程の最後のワンマン電車がいささか情けない風情でホームに入ってくる。
その頃には俺はもう、旅行という感じじゃなくなっていて、ただの移動、という感じで、つまらなそうにそれに乗り込むことになる。
臨海電車の進行方向、灰色の空の下、今はまだはるか向こうに小さくぼんやりと、低い山のような台形の影が見える。
俺の帰郷の旅は、それに向かって走る旅だ。
正確には、それに向かって走る乗り物に座って、ただ暇をつぶす旅だ。
その台形の影の少し手前が旅の目的地、実家のあるT×××町だった。
その薄暗い台形は、近づくにつれ、だんだん影を濃くし、視野の中で大きくなっていく。
ピラミッドの建設はまだ半分にも達していない。
というか俺が故郷を離れた十数年前から多少高くなったような気もするが、気のせいと言われればすんなり納得できる、それほどに進捗状況がよく分からない。
上の方になればなるほど細くなるから、作業はどんどん速くなる、加速するんだ、という説は本当かもしれない。
十年で20メートルしか高くならないのが、やがて十年で25メートル作業が進むようになったとして、それを加速と呼びたいのならば。
そういえば、「百年のうちに」という言葉も、よく聞いたものだ。
「百年の計」だとか、いかにも格好つけて語る大人もいた。
まだ子供だった俺も、さすがにその言葉の使い方のおかしさぐらいは分かった。
ピラミッドを見てしまうと、何かをしなければいけない、という気持ちがふっと消えそうになる。
不安なような、哀しいような、好ましくない気分になる。緊張感が抜けるというのは、必ずしも良い事とは限らない。
何かをしなければならない、これこそが都会の人間の行動原理。
純粋な泥人形は、そのような気持ちを抱かない。
それが両者の大きな違いだ。
都会の空気を長く吸ってしまった不純な泥人形たる俺は、その両者の間に宙ぶらりんだ。
そして、その中途半端さに途惑うには、もう歳をとり過ぎていた。
臨海線の車内の空気を吸うと、ますます俺の感覚は土地の雰囲気に呑まれ同調し、こういうものなのだという構えができてしまう。
若かったりそうでなかったりする女たちの化粧の野暮ったさが、好ましく見える、それさえ最初のうちだけだ。
客車の通路を、若い女性が何か食べながら歩いてくる。
爺さんがフル装備の農作業スタイルで乗り込んでくる。
あっという間に、そもそも何が正しいマナーなのか、何が正しい身だしなみなのかすら、分からなくなる。
不良じみた男子高校生のファッションも、都会ではもう見ないものだが、彼らが何を精いっぱいアピールしたいのかはよく伝わるから、もうそれでいいよ、って気分になる。
目的地、故郷の町まであと一時間というところで、ある無人駅に停車した。
もっとも、この路線の駅の三つに二つは無人駅なのだが。
その駅で、俺のボックスシートの向いに、二十代半ばぐらいに見える女性が腰を下ろした。脚が細かった。
彼女はすぐ、自分の隣に、同じ年ごろの女性を呼び寄せた。
連れではないが、駅で偶然出会った知り合いってところなんだろう。
俺は、できるだけ控えめに、正面の二人の女を盗み見た。どちらも、化粧っけはあまりないのに、髪がとても綺麗だった。
最初に来た女は非常に明るい茶髪で、でも攻撃的な印象はなかった。その隣の女は、もっと地味な髪色だったが、二人の髪にはどちらにも美しい艶があった。
都会なら、過剰にファッションで武装した女たちに特徴的なものだ。
おそらく、今このあたりでは、都会の技術を導入したヘアサロンで値段の高い施術を受けるのが、流行っているのだろう。
あくまでも俺の推測にすぎない。でも実際、田舎ではこういう事例がしばしば発生するのだ。人口千人の町にマウンテンバイクが百台ぐらい存在したり。
当然、目の前の女性たちをずっと観察するわけにもいかず、俺はまた車窓に顔を向けている。
動かないどうでもいい風景を、阿呆っぽく見えない仕方で眺め続ける、というのはなかなか難しいものだ。
無限と思えるほどの時間が経って、電車はようやく動き出そうとしていた。
それまで気づいていなかったのだが、二両編成の電車はほぼ満席だった。
俺の隣の席には、小ぶりの旅行鞄が置いてあった。俺のものであり、俺が置いたのだ。
正面に座る二人の女性が、それに目をやっていた。どちらともなく、近くに立っていた、俺や彼女たちより少し年配に見える女性に声をかけた。
「ここに、座らせてもらったらいいよ」
そして二人は俺ににっこりとほほ笑んだ。
咎めたてる雰囲気は全くなかった。俺も了承し、恐縮するでもふてくされるでもなく、ただ手早く鞄を自分の足元に置き直した。
呼ばれた女は、ありがとう、と一言言って、その新たにできた空席に腰かけた。
二人の先客とは、全く面識がないようだった。
首都では、このような光景はあまり見られない。
女たちが、俺を泥人形とみなしたからこのようにふるまったのか、泥人形か人間の旅行者か頓着せずに、彼女ら泥人形の流儀を通す性格なのか、そこまでは判断がつかなかった。
俺は俺で、もはやそれはしばらくしたら忘れてしまうような、印象に残らない平凡な出来事にしか、感じられないのだった。
現地の空気は、避けがたく俺を侵食し終えていた。
それでも、最初に座った女を再度チラリと見直し、この土地の泥人形にしてはかなり綺麗であることを確認するのは怠らなかったけれど。
2 実家に到着する
向かいの席の女たちは、目的地がもっと先らしく、俺が降りる駅でも座ったままだった。
俺は、変わったところもない駅舎を出て、老いた母が待つ実家へと歩いた。
まるで高校の帰り道のように、駅を出て、最短の道を歩き、キョロキョロさえせず、ただ、家に帰り着いた。
やっと帰郷の旅は終わった。
数日後には首都に帰らねばならないのだから、ある意味まだ半分だ、とは、思いたくなかった。
母と普段から連絡を取り合っているわけでもないのに、俺の近況報告はすぐに終わってしまった。
「あんた、煙草吸うようになったのね」
帰郷の度に、母は同じことを言う。
ボケが始まっているわけでもない。思い浮かんだことをそっけなく口にし、そしてすぐにその話題に飽きてしまい、悪意なく唐突に話題を変え、交わした言葉も忘れてしまう。
以前に同じことを言ったかどうかも気にしない。これも泥人形の習いだ。
旅に疲れていたので、母と同じ時刻、都会暮らしの者にとっては極めて早い時間に、用意されていた床に就くことにした。
泥人形の俺は、泥人形の町の泥人形の家で、泥のように眠った。
母から思いがけない言葉を聞いたのは、その翌朝だった。
「あんた、物騒ね」
母によると俺は、昨晩寝言で「死ね」「殺してやる」としきりに呟いていたんだという。
具体的な殺意を抱いている相手があるわけではなかった。
けれど、心の中で、やり場もない単なる悪態として、自然そう呟いている自覚ならば、しばらく前からあった。
ただそれを寝言に吐き出していたとは、全く知らなかった。
もしかしたら何らかの機会に、都会でも誰かに聞かれていたかもしれず、聞かなかったふりをされていただけかもしれない。
俺はただ深いため息をついて、母には何も言い訳をしなかった。巧い言い訳を思いつかなかったからだ。
過去の帰郷には、法事だの相続だの、大抵いつも事務的な理由があった。それが今回は、自分から母に、何となく帰ろうと思った、と伝えただけだった。
母は、「嬉しいねえ、もっと頻繁に帰ってくれればいいけど、遠いからねえ」などと言うが、その実、たいして感動も喜びも言葉に込もっていない。
そしておそらくは、内心もその通りなのだ。万事が泥人形の典型的なふるまいだった。
母に、物騒ね、と言われた直後、つまり帰郷した日の翌朝、俺は、ぶらついてくる、とだけ言い残して家を出た。
もとより居心地は良くなかった。それに加え、誰にも話していないが、今回の帰郷には目的があった。
俺は、気どっているようで自分で言うのも気が引けるが、都会の生活では、いつも周囲になにがしかの違和感を覚え続ける、孤独な泥人形なのだった。
中年と呼ばれる歳にさしかかりつつあるのに妻も子もないのはそのせいだ、と言えばさすがに自己弁護になるが、だが、違和感と孤独については、本当のことなのだ。
都会に行った泥人形たちが皆、そんなわけでもない。
大半の泥人形は溶け込んでいるのだ。
俺もまた、表面上は、完全に適応していた。
泥人形だと明かさねば、そうだとも思われないし、それを知られたところで、よっぽど心の狭い奴ら以外、都会の人間は泥人形を見下したりすることもなかった。
俺は都会では、他の泥人形たちと積極的に交わろうとしなかった。
数少ない友人はほとんどが人間だった。泥人形同士の、どこか傷をなめ合うような交わり方が嫌いだった。そこはかとない仲間意識みたいな感情が、受け入れられなかった。
だがそれでも俺は、人間には、一歩引いた品の良い接し方をしてしまうらしい。後輩が親しい先輩に接するような仕方、というか。
これは、長い付き合いがある人間にはっきりと指摘されたことだ。
俺がそんなだから、ある知人は、俺が自分を卑下しているのだと感じたかもしれない。
別の人間は、心を開いていないのだと感じたかもしれない。
どちらも、それほど間違っちゃいない。
俺はそんな自分の態度を分かっていたが、どうしようもできなかった。
俺は都会の泥人形の仲間内にも溶け込もうとせず、人間とも打ち解けられず、それゆえ、都会に出てからの年月の大半は、なんとなく孤独だった。
それに加えて俺は、ここ数年、ありきたりな言葉で言えば、都会暮らしに疲れていた。
このところ数ヶ月は、虚しさに我が身を押し潰されそうな夜が続いた。俺を取り囲む空気の粘度が、ジリジリと濃く重くなっていく感じ。心がくたびれ、やる気も希望もとんと湧いてこず、気分と機嫌が日に日に悪くなる。
自分が泥人形であることがそもそもの原因なのかすら、考えれば考えるほど分らなくなった。
孤独というものは、案外、楽しもうと頭を切り替えれば、悠々過ごせるものかもしれない。
しかし虚無は違う。ニヒリズムにとりつかれたまま生きていくことはできない。
少なくとも、都会では。
……それに何の意味があるんだよ?
……そんなこと頑張ったってしょうがないだろう?
……つまんねえ無価値な生活だな、あんたも俺も。
まあつまり、かなりしんどい生き方なのだ。
そして気持ちの問題だから、自分ではどうしようもないのだ。
そして俺は、今回の帰郷で、気づいてしまった。
俺は、なんと、故郷でも疎外感を感じているのだった。
ほとんど都会に溶け込み、純粋な泥人形でなくなったからだろうか。
いや違う。故郷の泥人形たちは俺を排除してなどいない。違和感はこちらの側にしかない。
それは、俺が都会から虚無を持って帰ってしまったからだ。
拭い去りがたく、毒の針みたいに、今も虚無は俺の心に深く突き立っていた。
こうなること、帰郷し老いた母の顔を見たところでこう感じることにしかならない、ということは、絶望的な発見ではあったが、すんなり受け入れるしかなかった。
ある程度、予想していたのかもしれない。
だからこそ、俺はある目的を果たすため、今回の帰郷に踏み切ったのだ。唯一の頼りない希望だった。
そして、以上の考察を、決して母に話すことはなかった。まあ、当たり前だ。
もしも話そうとしたならば、母は十分の一も聞かないうちに俺を制し、そして正しい診断を下すだろう。
「あれまあ、あんた疲れてるのね。疲れ過ぎて、頭おかしくなったんじゃないの」と。
3 同じ電車に乗る
帰郷の翌朝再び歩いてみても、やはり俺の故郷は、子供の頃とあきれるほどに変わらず、死んでいた。
死に続けていた。
今後何百年でも死に続けそうな気すらした。
その日向かったのは、ピラミッドのある隣町、M×××市だった。
ピラミッドの建築事業で多少なりとも人が多く、まばらだが高い建物もある町だ。
子供の頃、この隣町のことを都会だと信じていた。
進路を決める時までこの誤解を抱き続けていたなら、俺は隣町に働きに行き遊びに行き、隣町で酒を飲み女を抱くことをささやかな楽しみとする、平凡な大人の泥人形に成り果てていたかもしれない。
実際には、隣町は、俺の育ったド田舎のT×××町と五十歩百歩の泥人形の田舎集落に過ぎなかった。
俺は賢明にもこのことに十代半ばで気づいたので、故郷を捨ててでも本物の都会に行く道を選んだのだ。
俺は帰郷の時と同じ電車に乗り、隣町で降り、正午にもまだ遠い、やはり死にかけの町並みを歩いていた。
その季節にしては異常に日光の強い日だった。紫外線が、町並みと黙々と歩く俺とをジリジリ焼いた。
死につつある隣町をもっとじっくり味わいたくて、何件もの店に入った。
人恋しいのではなく、そこが死につつある町であることを確認するたびに得られる不思議な納得と安堵、そしておそらくは優越感が癖になって、必要でもない田舎じみた服を買い、田舎じみた喫茶店に入った。
大抵の喫茶店やラーメン屋には、小さな本棚があった。本棚の半分ほどは、流行りの漫画が置いてあった。
しかしその一方、多くの店で、二、三十年前の、俺がまだ小学生だった時分の漫画の単行本も数冊並んでいた。
何事も無いようにシレッと置いてあるのだが、都会からの旅行者の目からすると、時空が捻じ曲がったような、かなり異常な印象を受ける。
ただし、どれもこれもボロボロで、中古市場での価値はみこめないコンディションではあったが。
つまり、この町では、店の本棚の古い漫画を捨てる、という発想を誰一人持っていなくて、何十年も前の漫画が放置されているのだ。
そういう漫画を見つけて手に取る度、俺は寂しいような、情けないような、それでいて優しい気持ちに包まれた。
そういう気分こそが、この泥人形が住む地への、俺の、偽らざる率直な気持ちなのだった。
夕暮れ、そろそろ時間だ。
ピラミッドは港に面しており、俺が無個性で全く旨くないアイスレモンティーをすする喫茶店からゆうに三キロメートルはあったが、タクシーなど走っている町ではなかった。
バスの路線は違うところを通っていたし、そもそも最初から乗る予定にもしていなかった。
目立たぬように徒歩で忍び寄るつもりだった。
「ねえ父さん、泥人形って人間とどう違うの?」
短くないこれまでの人生で、いろんな言葉を口にし、いろんな声が耳に入ってきたものだ。
その中で、今も心に残っているのは、大半が、故郷で過ごした子供時代に聞いたものだった。
都会の人間には都会的なデリカシーがある。
だが田舎の泥人形には無い。
デリカシーが無いのではない。デリカシーをもつという習慣が無い。だから、深刻に受け止めればグサグサくるようなことも、案外平気で口にする。
「泥人形は、人間さんの言うことだけ、ハイハイって聞いてりゃいいんだ」
「泥人形の住む地方は、都会の人間から迷惑を押しつけられる。でもそれで、この泥人形の町も潤うんだ。放っておかれたら、我々泥人形は飢え死にしてしまう。だからこれで、うまくいってるんだ」
「人間は人間、泥人形は泥人形」
そんなことを言った大人の泥人形もいた。
これは父ではなかった。父の葬儀の時の、伯父の言葉だったと思う。
文字づらは自虐の言葉だし、こんな言葉を吐く大人の泥人形は、たしかに自虐的な雰囲気で、これを言ったのだ。
しかしそれでいて、何も傷ついていない。怒ってもいない。
この言葉を言う時ほんの少し寂しげな顔を見せ、周りの泥人形たちがほんの少し寂しく笑い、それで終わりになる。
気にかけない、というのでもなく、諦め受け入れているというのでもない。
そこから先を考えない習慣になっているだけだ。
まだ無垢な少年だった俺は、自分の出自について、大人たちよりは少し傷つき、憤り、悩み、考えた。
そしてついに、ここの大人が嫌いだ、という気持ちが芽生えてしまった。
嫌いな理由は、ここの大人が皆、馬鹿にしか思えなくなったからだ。
大人の泥人形が考えようとしない以上、彼らから、人生や考え方に深刻な影響を及ぼす深みのある言葉を聞けるはずもなかった。
記憶に残るのと、大事なのとは、全く違う場合もあるってことだ。
俺がこのたび、そんな故郷を再訪する決定的なきっかけになったのは、首都で読んだ雑誌の記事だった。
その文面をどこで読んだのか、はっきりとは憶えていない。
それでもインパクトある記憶として、その一文は俺の頭の中で、何ヵ月も暗い濃い渦を巻き続けた。
『……いわゆる泥人形は、ピラミッドで使役する労働力として近代発生した、という俗説があるが、これは歴史学的にも異論があり、人権的にも問題視されている……』
たしかに、都会では、泥人形ってそもそも何なんだ、という問いをタブーとする雰囲気がある。誰も話題にしないし、答えも知らない。
人権などどうでもいい。
俺は真実が知りたいだけだ。「発生」というあいまいな言葉は、どういう意味なのか。泥人形の集団がそこに住むようになった、ということだ。
だがそれは、どういう風にして、なんだろう? どこか別の場所から集められたのか、あるいは……、無から造られたのか?
造られた、というその考えが、俺を虜にした。
俺のプライドが傷つけられたのではなかった。
むしろ、不思議なことに、魅力的に感じられた。
反面、そんな奇妙なことを考えている俺の精神状態は、非常によろしくないという自覚もあった。
俺に住み着いた虚無は、日に日に濃くなっていった。
4 フェンスに登る
夕暮れの時間も終わり、夜闇がピラミッドを包み始めた頃。
俺は生れて初めて、〈ピラミッド正門前〉というバス停から、ピラミッドを見ていた。
正確に言えば、バス通りを挟んで、視界の右端から左端まで果てしなく広がるフェンスを見ていた。
そして俺の目の前には、バス停の名が示す通り、正門、そして守衛の詰所があった。
ピラミッド、ピラミッドと子供の頃から呼んでいたけれど、バス停の名前みたいな公式の表示で『ピラミッド』と言われると変な感じもする。
正式名称は漢字で書くと二十文字近くにもなるし、漢字二文字の略称も音的に間抜けな感じになるので、これが無難ってことなんだろう。
まるで飛行場のようだな、その場に立ってみて、俺はそんな第一印象を抱いた。
漠然と、外壁は刑務所のような高い硬いコンクリートの壁みたいに思い描いていたのだが、全くの誤解だった。
壁のすぐ内側から、もうピラミッドの一番下の段が始まっているイメージだったが、そんなのは子供の空想にすぎなかった。
ピラミッド敷地の周囲は何キロメートルもあるに違いない。そんな長さに壁を作る労力は省かれ、より安価な緑色のフェンスが、ぐるりと広い敷地を囲っているのだった。
昼間ならフェンス越しにいくらでも中を覗くこともできるだろう。
ただ、フェンスからピラミッドまではサッカーができるぐらいの距離があり、重機や資材があちこちに置かれ積まれている。
どのみち、もっと近く、フェンスの中に入らないと、ピラミッドを見てきたということにはならない。
このままでは、小さな山を少し離れたところから見物してきた、というのと何ら変わらない。
俺は、そこから入れるとは思っていなかったが、とりあえず通りを渡り、正門の前に立ち止まって様子を見た。
正門は大きな車両を通すべく、とても幅広く作られている。
正門脇には左右両方に守衛詰所がある。そして、非常に横に長い鉄の扉が見え、それはレールの上に乗っていて、仮に守衛がいなくなる時間帯があったとしても、その時にはそれが正門を固く閉ざすのだろうと思われた。
俺は正門を諦めた。
その脇の、高いフェンスに目をやる。やっぱり、側面突破しかないんだろう。
高さ5メートルほど、一番上には有刺鉄線。しかし、これなら乗り越えられるんじゃないか。
とりあえず、守衛詰所を避けねばならない。正門から少しフェンスに沿って歩いた。
人通りが途絶えた瞬間、フェンスにつかまり、足もかけてみる。
両脚が地面から離れる。
やっぱり、いける。
問題は有刺鉄線だが、これも痛いだけで乗り越えるのは不可能ではなさそうだ。希望と自信が湧いてきた。俺は膝ほどの高さから、すぐ飛び降りた。
この一連の行為を、ここで、やるべきではなかった。
本格的にトライする気持ちを固めた俺は、守衛詰所から100メートルは歩いて、またフェンスに取り付いた。
だが、先ほどの不審な行動がたたり、しっかりと守衛に尾行されていた。
「こらー、あんた、何やってんの!」
下から初老の守衛にライトで照らされる。
俺は我に返った。
すでにその手は、一番上の有刺鉄線を握っていた。
なんで俺は、すんなり入れると思ったのだろう? たちまち、水でもぶっかけられたような、神妙な気持ちになってしまった。
「慌てないでいいから、落ちたら大変だから」
ご丁寧に、守衛は手元を照らしてくれる。屈辱だ。
俺の掌は、シチューのような泥水で濡れていた。
それに俺は、こんな暗闇の中、懐中電灯も持たずに、中に入って何をしようとしていたんだろう?
俺は、落下もせず、おめおめと、無事道路側に降りる。
すぐさま守衛は顔を照らしてきた。
「困るよお。馬鹿なことしないでよお」
暗い中ではあったが、この守衛も泥人形だと、雰囲気や体臭ですぐ分かった。
「ちょっとこっち、ついて来てね。規則だからさあ。書類書いてもらわないといけないからさあ」
俺は、黙秘、というか、ただ黙っていた。守衛はそれ以上言葉をかけなかった。
守衛にとっては、俺の動機や目的を聞き出すことより、書類とやらを書かせる方がよほど大事らしかった。
詰所の近くまでトボトボと歩いた。守衛までトボトボと歩いていた。
そこに、自転車で通りがかった女がいた。
「ちょっとタクさん、こんなとこで何してんの」
守衛が女に振り向き、その顔がパッと明るくなる。
「いよう、アキさん。まあね、この人がちょっといたずらをね」
アキさんと呼ばれた女は、俺の顔を見て、あれ? と怪訝そうな顔になった。
そして次の瞬間、俺の手首を取った。
有無を言わさず、守衛と俺が向かっていたのと、逆方向に引っ張ってゆく。
「ちょっとちょっと、アキさん! この人を、何処に連れてこうってんだよ?」
「タクさん、ふざけんじゃないわよ。お金ももらってないわ、鞄も置きっぱなしだわ、しょうがないわね。来なさいよもう」
タクさんて、俺のことか。
やっと了解した。守衛も、勝手に了解していた。
「はあ、あれか、アキさんの店の客かよ」
女は片手で自転車を押し、片手で俺の手を引いてズンズン歩いていく。
少し離れたところで振り向いて、守衛に明るく答える。
「タナカさん、内緒にしといて。ダメかなあ……? 今度うち来てくれたら、サービスするからさ」
俺は、ダメかなあ、の口調にドキッとしてしまった。可愛い甘え声だった。
守衛もデレデレとだらしない声になっていた。
「しゃあねえなあ、アキさんとこの客は」
「何言ってんのよ、タナカさんも、その一人でしょ」
5 煙を吸う
アキさんなる女に、彼女の店に連れて行かれる。
店といっても八百屋や文房具屋ではない。
喫茶店と食堂と飲み屋とスナックとカラオケ屋とダーツ場とビリヤード場を兼ねたような、それでいてたいして広くない、そういう「店」だった。ピラミッドからさほど遠くない。
「本物のタクさん、いる?」
「うぇーい、アキホちゃん、ちゃんとお留守番してたよお、っていうか、本物ってなんだよ?」
本物のタクさん、と呼ばれた、俺と背格好ぐらいしか似ていない若い男は、ゲラゲラ笑い出した。
「だってあんた本物でしょ? 偽者? そうじゃなかったら、本物に決まってるじゃないの」
タクさんは笑い続けていた。
自分を指さして「ホンモノ、俺、ホンモノ」と繰り返す。
陽気さが度を越していた。つまり、半ば病的だった。
タクさんは、ようやく俺に気づいて、「おっ、お客さんかい?」と訊いた。
「お客さんよ、でもお店のお客さんじゃなくて私の客。ほらタクさん、もう長っ尻(ちり)じゃない。そろそろお愛想にしてくれないかな」
「あーん? 何言ってんだよ、俺はそもそも、帰ろうと思ってたところだよおおお、なのに店番押し付けられたんじゃねえか。勝手だよなあアキホちゃんは」
「はいはい、そうでした。お店のお金に手をつけちゃいないでしょうね」
「何言ってんだよ、じゃあな、また来るよ」
「明日も、待ってるわよ」
本物のタクさんは陽気に出て行った。
俺は、終始うつむいて、むっつり黙って立ったままだった。
「さてと」
アキホは俺を振り返った。
「さっきはね、買い物に出てたのよ。スパイスが足りなくなってね。本当に偶然」
水煙草。
俺はそんなもの経験したことがない。存在すら知らなかった。
「アラブ文化圏では一般的なのよ。三年ぐらい前からこの町でも大流行。……って言っても店はここしかないし、流行らせたのは私だけど」
機転はきくが頭の良いのを鼻にかけない、そんな感じの、割とよくいるタイプの泥人形だ。
馬鹿と接しても馬鹿にせず付き合える。
あるいは馬鹿にしているのを悟られずに付き合える。俺よりずっと頭が良いということだ。
水商売をやるにはそういう才能が必要なのは、泥人形も人間も変わらない。
「マツリタケも入れて、いいよね?」
「は?」
「水煙草に混ぜるの」
「……まかせるよ」
「西の山に、いっぱい生えてるの」
「……」
タクさんの、紅生姜をドンブリ半杯食べたようなハイの理由が分かった。
そうか、この町の泥人形の、不真面目な部類に属する大人たちは、こっそり山で採ってきたキノコを吸うのか。
不良になって背伸びするわけでもなく、地味な少年時代を送って即座に故郷を捨てた俺には、知らなかったことだった。
珍奇な水煙草屋がこんな田舎で流行る理由も分かった。
「さて」
俺の目の前でテキパキと水パイプの用意をし、その1メートルほどの実験器具みたいなおっ立った筒の天辺に赤く焼けた炭を乗せ、まず自分で思いっきりホースの先の吸い口から煙草の葉プラスアルファの燃えた煙を吸い、一瞬恍惚とした目になり、やがて俺の存在を思い出して誤魔化すように吸い口を手渡し、その間接チューの吸い口を俺も思いっきり吸って鼻と口から白い煙をボワッと吐き出し目を白黒させているのを見届けてから、アキホは口を開いた。
「なんであんた、ピラミッドの金網登ってたのよ。馬鹿みたい」
馬鹿と言われても、腹は立たなかった。
あんなことをやって窮地に陥って、彼女の機転に助けられたのは、紛れもない事実だった。
「前も、うちの客があんたと同じことしてさ」
アキホが笑った。
遠い目をして笑ったのではなく、俺のドジを笑った。
この世代の泥人形の女性がたまに見せる、少女のような笑顔だった。
俺はさらに魅力を感じた。アキホの真っ赤な口紅を見て、すでに少し下品な気分になっていた。
「それがさ、誰だと思う?」
「分かるわけねえよ」
「まあ、やっと喋ってくれた」
アキホは俺の顔を覗き込む。
俺はコワモテを気どって難しい顔で目を逸らす。
だが本当は照れ臭かっただけだった。
「それがね。さっき店にいたタクさんなの! 自転車でお店に向かってたらさ、遠くからあんたの姿が見えたから、今店にいるはずのタクさんがね、またフラフラ散歩に出たんだって、私早とちりしちゃってさ……。
慌てて駆けつけたわけ。そしたらあんただった。でもどこかで見たことあるな、あ、電車の人だ、って分かったから、助けてあげたの」
俺も、薄々そうなんじゃないかと思っていた。あの電車の、三人の中で一番綺麗だった女ではないかと。
「で、なんであんなことしてたの?」
「あんたは、何で俺を助けてくれたんだ?」
泥人形の間では、黙秘するということが人間の間でより、よほどまかり通っている。喋りたくないことは喋らない。問い質す方も、一度訊いて答えが無ければ問い詰めない。泥人形は喋りたいことだけを勝手に喋るのだ。
アキホは少し考え込んだ。
「まあねえ、とっさのことだったけど。だってあんた、電車で席を譲ってくれたじゃない」
「あんたに譲ったわけじゃないよ」
「あんたが嫌な人じゃないって、知ってたってことよ」
俺の中で大輪の花が咲きかけていたが、クールに見えるように努めた。
「それにさあ」
「ん?」
「あんたの雰囲気、かっこよかったから。スッとしててさ。服とか、仕草とか。この町の人じゃないよね。もっと大きな町から来たんでしょ」
このかっこよかった、は、オスとしての評価というよりは、紳士的だ、とかそういう意味なのだろうと思い、早まる時ではない、と俺は思った。
しばらく真面目な会話を続けてみよう。アキホの細い形の良い脚が気になってしょうがなかった。見てもらいたくてしょうがないような挑発的な黒のストッキングだった。
「ああ、俺はね、ピラミッドを見たくて、いや、調べてみたくて、久しぶりに帰って来たんだ。あの電車で」
「……まあ」
「その途中であんたに逢ったわけだよ」
「ねえ、あんたってやめてよ。私は……」
「アキホさん、だっけ、守衛のおっさんとかタクさんが言ってたな」
「アキホでいいわよ、呼び捨てで。漢字はね……、もう飽き飽き、の飽きホ」
「なんだよそれ、嘘だろ」
「男にすぐ飽きるから」
俺とアキホは腹の底から笑い声を吐き出した。
俺たちの脳味噌にも、いつのまにやら煙が効いてきたようで、だんだんタクさんみたいな心持ちになってきた。
今なら百メートルある金網でも大はしゃぎで登れるだろう。
タクさんみたいに喋りながらヨダレを垂らすのだけは気をつけたいものだ、と俺は自分を戒めた。
一方、ヨダレは垂れていないものの、笑い過ぎて涙を目に浮かべているアキホを、俺は最高に魅力的だと思った。
三歳児のように綺麗な瞳だ。もっとも、タクさんもこんな目になっていたが。そして多分、俺も。
俺の視線はアキホの瞳を、赤い唇を、キラキラ光る美しい髪を、小ぶりな胸を、細い手足を、右往左往していた。
アキホは俺の話をただ聞いてくれる。
ピラミッドのフェンスを越えようとしてまんまと捕まった顛末を。
でも一応、俺はまだ、自分の目的を憶えていた。かろうじて。
「分かった。明日、あの中、見せてあげられると思う」
アキホはフェンスの内側に入る算段があるようだ。
そしてそれに加え、何かを知っているような雰囲気。
しかしだ。明日、という言葉がほわんほわんと宙に浮かんでいた。じゃあ、明日の朝まで、俺たちは何をするんだろう。
「で、あんたのことは、なんて呼べばいいの?」
「F」
「Fさん、ね。ふーん。あんた、私の兄さんに雰囲気似てるわ」
「おっ、光栄だね」
テキトーに話題を変えるアキホ。テキトーに返事している俺。
いつの間にか、〈営業中〉のパネルがカウンターの上に転がっている。
いよいよか。
俺はアキホの左手に、自分の右手を乗せた。
「兄さんのこと、好きなのかよ?」
アキホはスッと立ち上がった。
急に小便を我慢している体育教師のような厳めしいハンサムとなって、振り返ると店の椅子をガツンと蹴った。
「あんな奴、大っ嫌い」
白い煙で満たされていた俺の脳を、一気に暗雲が覆った。
アキホは俺に向き直った。
もう表情は、さっきの優しい顔に戻っていた。
「ううん、違うの。ああ、だからね……。あんたと兄さんは、似てるけど大違いなんだ。兄さんは気どってるだけ。あんな奴、かっこ悪い田舎者の泥人形よ」
そう言いながらアキホは俺の胸に飛び込んできた。
俺の背中でアキホの指はよく動いた。
俺のブラジャーのホックでも探しているかのようだった。
俺もずっと手を動かし続けて、それから数時間たっぷり、マツリタケってやつのもたらす幸福を享受した。
どうせ、酔いが醒めたら元の暗い俺に戻ってしまうのもよく分かっていた。
(後編へ続く)